坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


 

沖縄ノート(9)屈辱の戦後①  17/12/10

(参考文献は岩波新書『沖縄』、大田昌秀著『沖縄のこころ』、林博史『沖縄戦が問うもの』等)

 

沖縄守備隊の最後
 6月下旬になると砲声も途絶え、23日には32軍牛島満司令官、長勇参謀長が自決し、司令部のあった摩文仁の丘が敵の手中に落ちると、守備軍首脳は自刃した。
 その日、嘉手納飛行場近くにあった米第十軍司令部では、軍楽隊がアメリカ国歌を吹奏し、星条旗が高々と掲げられた。その戦況を三日後の「朝日新聞」がこのように報じている。
 「沖縄戦局は、今や地上における主力戦の終了によって事実上最終段階を迎えた。敵が本土正面に左右両翼の本土進攻基地を完成したことを意味するもので、大東亜戦争は沖縄戦の最終局面到達により、まさに本土を戦場とする最終決戦の段階に突入するものである」。
 だがそのとき、地下壕に取り残されていた部隊が、命令に従ってなおゲリラ戦をかまえており、住民の多くも洞窟の中に潜んでいた。当時沖縄戦最後の32軍の拠点となった摩文仁の丘で見た光景を、大田昌秀氏が著書『沖縄のこころ』の中で次のように記している。
 「摩文仁の丘が陥落して以来、米兵たちは朝の8時ごろから自動小銃をかかえて丘の頂上に現れた。かれらは4、5人ずつ組をなして頂上のここかしこに陣取ると、上半身裸になって日光浴を楽しみながら眼下にひろがる岩山に向かってめちゃくちゃに撃ちまくった。敗残兵狩りがその目的だったにちがいないが、わたしには、戦い勝って無事に故国へ帰れるよろこびを発散させているとしか思えなかった。だが時折、飢えに我を忘れたのか、敗残兵がふらりふらりと岩陰から姿を現して、米兵たちに狙い撃ちのたのしみを満喫させることもあった。こうして戦勝者たちは、有り余るほどの食料を持参して、スポーツを楽しむと、夕方5時ごろにはいっせいに摩文仁の陣地に引き上げた。かれらが引き揚げた後、丘の頂上には残飯整理をするため、どこからともなく飢えた敗残兵たちが蝟集した。米兵は惜しげもなく缶詰を放置したまま引き揚げたが、ほとんどは銃剣で穴があけられていた。それでも餓鬼犬と化したわたしたちにとって、それは最後の贈り物で、その奪い合いから友軍同志のあいだで手榴弾が飛び交い、毎日のように命を落とす者が続出した。こうして米兵たちは、手をこまぬいたまま、敗残兵狩りをすることができた」
 これは当時米兵たちが口にしていた「ジャップ狩り」の最後の光景であろう。米兵が食べ残した食料を奪い合う日本兵の姿はおぞましく痛ましい。

 

屈辱の第一歩
 沖縄戦が終息すると、敗残兵たちは捕虜となり、DDTを全身にかけられたのちに、肩とズボンの脇にPW(捕虜の目印)のマークのついた服を着せられ、捕虜収容所に収容された。
 かれらが収容所に運ばれるトラックの上で見たものは、道路といわず畑といわず放置された死体の累々とした光景であり、変わり果てた沖縄の街と村の姿であった。戦闘が行われる間、米軍は戦死者を埋葬し、その上に十字架を立てていたのだが、日本軍は戦況の悪化とともに戦死者を放置していた。その戦友たちの無残な姿が捕虜たちの目に映ったのだった。7月に建てられた金武町の収容所では、最大時,本土と沖縄出身の兵約1万人が別々に収容されたのだが、精神に異常をきたした兵のための収容所もあった。そこでは、家族を殺された沖縄出身者や、同胞を殺され、虐待された朝鮮人軍夫らが、日本軍将校や下士官にリンチを加えることもあったという。
 沖縄出身の捕虜約3000人は、ハワイにいったんは移送され、翌年10月ごろから順次送り返された。朝鮮人捕虜は45年秋に朝鮮半島へ、日本本土の捕虜は本土へ返還された。
 ガマ(壕)の中に潜んでいて助かった住民たちも、兵隊たちと同じように、テント小屋(住民用の収容所)に運ばれた。なかには家畜小屋に押し込まれる住民もいた。「捕虜になれば、戦車でひき殺される」と信じ込まされていた住民たちは、米軍の扱いに安堵した。
 彼らは命以外のすべてを失っていた。中部や南部では、戸籍簿が失われたために、死者の実数さえわからなかった。全員が犠牲となった一家は、戦前に生存した痕跡さえ残されていなかった。
 住民たちは、毎日のように、ハエが群がり膨れ上がり、腐臭のする遺体を集め、穴を掘って埋めた。彼らは出歩くことを禁じられ、米軍が支給するわずかばかりの食料で飢えをしのいでいた。
 米軍は、収容した住民に軍の作業をさせ、しばらくは住民にわずかばかりの食料を無償で支給したのだが、使役にたいする代価はいっさい支払わなかった。住民は米兵からタバコをもらい、海岸に流れ着いた米兵の食べ残しを拾い、乾かして食料とするなどしていた。
 そのころ、戦争による衛生環境悪化のため「戦争マラリア」が流行した。日本本土では米軍の上陸に備えて予防対策が講じられていたのだが、沖縄では無防備だったため、マラリアが猖獗を極め、罹患者は20万人に及んだという。それでも住民は米軍への依存を深めていった。そうせざるをえなかったのは、沖縄戦で日本軍から受けた酷い体験の記憶があったからでもあった。
 日本軍は銃を突きつけて、わずかばかりの食料を奪い、壕から追い出して、自分たちだけの安全をはかった。あげくは住民をスパイ呼ばわりして殺し、集団自決を強要した。それに比べれば、敵国人に食料を与える米軍の扱いは日本軍のそれとは違い、ありがたいとも思われた。そのため、米国は人道的で民主主義の国だという米支配者の宣伝は抵抗なく受け入れられていった。だが、そうした宣伝が覆るのに、それほどの時間はかからなかった。

 

餓死の指令
 軍政府は48年6月以来、入荷した資材陸揚げのため1千人の住民を強制徴用していた。宿舎とされた使い古したテント下の地面で、労働者たちは藁や草を敷いて寝泊まりし、洗面用の水も与えられず、食事といえば、汚れたアルミの皿に乗せられた塩味のメリケン粉や、腐ったような、ふやけた蒸しパン一つだけであった。労働のあとに手足を洗う水さえなかった。そうした条件下で、労働者は日を追うごとに減り続け、陸揚げができない状況となった。市町村会は何度か改善を求めたのだが、軍政府は応じなかったばかりか、軍政府は報復として全島の売店の閉鎖を指令した。命綱である売店がなくなれば餓死するしかない。新聞は号外を出し、全島が騒然となった。その後は、軍政府要路への陳情が繰り返され、市民大会が開かれ、指令の実施はようやく中止となった。

 この事件は、自由と民主主義を宣伝する米軍政の真実の姿を示すものであったから、住民の米国に対する見方を一変させることになった。米国の軍政府支配下の沖縄では、このようにして屈辱の第一歩が踏み出されたのだったが、その屈辱の戦後はその後も続いた。

(つづく)

 

 
 


 

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