坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 沖縄ノート(13)基地建設と住民の抵抗  18/04/21

50年代
 命綱であった土地を奪われた沖縄の人々は、急速にすすむ建設工事の目的が何なのかを、はじめは知らなかった。戦後の沖縄経済を復興させるためだと信じる住民も多くいたという。だが、それは、かつて琉球の文化と密接な関係にあった中国、朝鮮に対して銃口を向ける基地の建設だったのだが、その事実を知るのは、しばらくしてからのことであった。まして、その基地が沖縄本島全面積の4分の1近くを占めるであろうことなど誰が想像しただろうか。
 1948年に大統領となったトルーマンは、一時は「領土的野心はまったくない」と語り、沖縄に駐留する米軍首脳たちも、当初は「沖縄を東洋の民主主義のショウウインドウにする」などと言っていた。終戦直後の米国内ではそうした見方もあっただろうが、その後は極東情勢が変化し、米ソの対立が激化した。朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄は冷戦下のかなめ石として極東最大の基地の島へと変貌していった。
 米国は1949年に、台風に耐えられるだけの基地を造るという名目で、3380万ドルという莫大な予算を組み、戦前の日本軍の基地を拡張しようと計画していた。それが、50年春、沖縄本島を貫通する軍用道路建設から始まった。
 那覇から沖縄本島の北端までの西海岸123キロの軍用幹線道路一号線が造られ、続いて、東海岸13号線が建設された。続いて那覇港と泊港の補修整備、軍用倉庫、飛行場、米軍のための病院、発電所などの軍用施設が次々と造られていった。 それらは、嘉手納から那覇までを埋め尽くす広大な沖縄の基地化であった。同じころ日本本土では、朝鮮戦争による特需で経済が上向き、経済白書の「もはや戦後ではない」の標語が現実味を帯びていた。この沖縄での基地建設工事に、日本本土の鹿島建設などゼネコンと大手建設企業20社余りが参加している。朝鮮戦争の前線基地となった沖縄と、その朝鮮戦争によって経済が潤う本土との違いが対照的である。

土地闘争
 その1950年代に、米軍政府の無法と横暴は頂点に達することになる。武装した米兵たちが、土地取り上げに応じない住民を家屋から追い出し、ブルドーザーで家を破壊し、畑を掘り崩していった。それに対して、住民はブルドーザーの前に座り込んで抵抗した。そうした「土地闘争」が、沖縄のいたるところで繰り広げられた。
 52年、那覇市上之屋では、20数万坪の私有地が米軍住宅建設のために接収され、小禄村具志では、住宅地と田畑が、燃料貯蔵地を造るために住民の立ち退きが命じられた。53年、伊江島では、飛行場と演習場建設のために住民の土地が取り上げられた。だが、上之屋でも小禄村でも、立ち退きに応じない住民は、銃剣とブルドーザーの前に立ちはだかった。
 次は、53年12月に小禄村での土地強奪に立ち向かう住民の抵抗の様子を叙したもので、瀬永亀次郎著『民族の悲劇』中の叙述を、筆者が要約し書き改めたものである。

  早朝5時、米軍の請負業者が運転するブルドーザーが、農作物を踏み砕いて整地を始めた。
ヤグラの上で見張っていた村民が鐘を打ち鳴らした。すると、それを聞きつけた学童をふくむ1500人の村民が続々と集まり、ブルドーザーの前に立ちはだかった。村民代表がブルドーザーを動かす男に呼びかけた。
「あなた方も同じ日本人である。血を分けた同胞がアメリカの土地取り上げに反対して、命がけでたたかっている。われわれは、生活を守るためにアメリカに土地を渡すことはできない。あなた方も生活のために雇われ、アメリカ軍の命令に従って仕事をしていることは、よくわかるのだが、自分一個の生活のために、数千人の同胞が土地を盗られて死んでいくのを傍観してよいのだろうか。不当なアメリカの土地取り上げに味方せず、生活を守るためにたたかっている同胞の側について、運転台から下りてもらいたい。」
 呼びかけに応えて、運転台にいた日本人労働者が下りて来て群衆のなかに加わった。歓声が湧き起こった。それを見た米兵の隊長が、「私にはどうにもできない。副長官に連絡し、なんとかするから、おとなしくしていてほしい」と言った。住民の隊列から再び歓声が湧いた。
 住民たちは次々と缶詰箱の演題に立って、「どんな攻撃があろうと、土地を守るためには団結だ。生活を守る戦列を固めよう」と声を張り上げると、口笛と拍手がそれに応じた。
 その時、武装したアメリカ兵200余と、琉球政府主席指揮下の警官50人ばかりが現れ、立ちふさがる住民を包囲した。指揮官オールド・コント大佐が指令を発した。「オグデン民生副長官の命により、ただちに解散を命じる。従わない者は武力によって排除する」。
 それでも住民は誰一人引き下がらず、座り込みの円陣をつくり、中心に若い男たち、その外側に学童生徒たち、その周辺に、赤子をおぶった母親たちが結束した。女子供には米兵は手を付けまいという判断からだった。手を焼いた指揮官の大佐が、催涙ガスを取り出して散布する様子を見せたのだが、風向きが思うようではないらしい。
 睨み合いが1時間ほど続くと、鉄兜をかぶり背嚢を背にした2個中隊400人ほどの米機動部隊がトラック2台に乗ってやってきた。と見るや、女子供を蹴散らし、円陣の中心に突進して、座り込んでいる男たちに分厚い毛布をいっせいに被せ始めた。住民たちは一人ずつ、ぐるぐる巻きにされ、それを500メートル先の広場まで運ぶという人間梱包運搬競争に米兵たちは興じた。運搬の途中、梱包がほどけそうになると、老いも若きも必死に抜け出て、座りこんだ円陣へ駆け戻った。このような住民の意を決した抵抗で、梱包運びは終わるともない。
 業を煮やした指揮官が、次に暴力に直接訴える許可を下した。米兵たちは、銃剣を振り回して住民たちを威嚇し、殴り、蹴り、突き倒した。円陣の中は罵声と叫声が飛び交った。それが7時間も続いて、住民たちの命がけの抵抗はようやく収束した。
 これ以上の無法があるだろうか。「自由」と「民主主義」を謳う国家アメリカの他民族に向けられた銃剣と暴力は、日本国民の生活を守ろうとする「自由」を無慈悲にも打ち砕いたのだった。
 さすがに、命令を下したオグデン将軍は、この蛮行が他の住民に知られるのを怖れ、翌日の新聞に、「共産主義者の人民党員が集結し、小禄飛行場を襲うという情報に基づいたもので、共産主義者取締りを目的とする措置であった」と、虚偽の釈明をせざるを得なかった。

(つづく)