坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 沖縄ノート(12)なぜ沖縄が占領統治されたのか  18/04/21

米極東戦略の狂い
 戦後に米ソの対立が深まり、連合国が分裂すると、それが、東アジアで激動を引き起こし、米国とともに連合国であった中国では内戦が激化した。
アメリカは戦中戦後、蒋介石が率いる国民党軍を支援し、戦後は、国民党政権による親米政権が確立するものと判断していた。その点で、沖縄は国民党軍を支援する基地として重要な位置にあった。米軍は沖縄戦が終わると、大量の軍事物資を南洋諸島から沖縄に集積し、那覇港や勝連半島のホワイトビーチから上海に送り込んだ。だが、その後に蒋介石軍が敗北し、1949年に中華人民共和国が誕生する。米国の戦後の極東戦略に狂いが生じたのだ。それが日本本土と沖縄に基地を置く「全土基地方式」につながり、沖縄は冷戦構造の中枢に位置付けられることになった。

米国と連合国の対日不信
 では、アメリカと連合国は、敗戦後の日本をどのように見ていたのだろうか。沖縄の占領統治をめぐる興味深い質疑が、講和条約締結の2年後に国会で交わされている。
 以下は吉田健正著『軍事基地沖縄』(高文研)から。
「1953年2月の衆議院外務委員会での、改進党の並木芳雄議員が、『米国は何も、あそこ(沖縄)で司法、立法、行政の三権を掌握しなくてもいいはずなのです。米国としては、沖縄などについては、軍事的な基地、拠点さえ確保していれば、目的が足りると思う』と質問した」。
 質問に立った並木議員は、沖縄を日本の主権が及ぶ領土とし、本土と同じように基地だけ貸与してはどうか、米国としては、それで充分ではないのか、なにも米国に沖縄を占領統治させる必要はないのではないのか、と疑問を呈している。
これに対し、下田武三・外務省条約局長(のちの中米大使)が、51年に締結された(沖縄を切り離す)サンフランシスコ平和条約第三条の規定を前提に、次のような見解を示している。
 『沖縄、南西諸島の帰属について、ああいう解決(占領統治)を見ました理由は、一つには、米国の戦略的要求を満足せしめるという観点と、もう一つは、かつて日本帝国が南進の基地として、あの方面の島々を利用した。従って、再び日本の南進の足場となることを防ごうという観点もあったことは、これは争えない歴史的な事実であると思うのであります。現実の国際情勢は遺憾ながら、平和条約締結当時、数か国(オーストラリアなど)が示した不信の念は、いまだ完全に払拭されていないというのが、事実であろうと思います』。
 この答弁は、戦後もなお、米国をはじめとする連合国が、侵略国であった日本に対して不信の念を抱いていたことを認めると同時に、米国による沖縄の占領支配を容認するものであった。だが、肝心の占領支配の不当性については一言の疑義も挟んでいない。
 それにしても、「沖縄を日本の主権が及ぶ領土としたらどうか」という質問は、その限りでは、もっともというべきだが、それへの答弁が、沖縄が「南進」の拠点であったことを「争えない歴史的事実」だとし、それに対する米国の警戒心を当然視していることに注目したい。敗戦後の日本が未だに侵略の野心を残していたことを認めているかのようでもある。この国会質問が講和条約締結後に行われたことも興味深い。沖縄の戦後を決定づけた講和条約が、当時の国会で充分議論されていなかったことを表している。

侵略の基地であった島
 米軍進攻以前に、沖縄が日本軍の南洋諸島侵略の足場とされていたことから、米国は、戦後において、なお日本の侵略性の残存を警戒し、沖縄に日本の主権が及ぶことを危険視したといえるだろう。以後、冷戦下での米軍基地建設が急速に進むことになった。
 米国軍は、日本軍の港湾施設、陣地などを占領し、日本軍の軍事施設を引き継いだだけでなく、住民が住む集落や田畑、山林原野を強制接収し、沖縄を、本土攻撃と、戦後の反共の基地として拡張し造り替え、空爆、艦砲射撃、実弾射撃訓練を、沖縄の陸、海、空で繰り返した。それは、中華人民共和国の成立と朝鮮半島での緊張の高まりに即応したものだった。
 そのような基地建設と住民支配が1945年3月の慶良間諸島上陸から、72年5月14日の「沖縄返還」までの27年間に及ぶことになった。

分離支配と祖国復帰の禁圧
 占領統治が、沖縄の住民を本土の住民とは異なる民族だとして、分離するものであったことが注目される。「日本政府は沖縄の住民を日本人とは見ていない」とする、なんらかの情報による米国側の判断があったことも、分離支配の背景にあったとも考えられる。
 以下は、山田敬男編『日本近現代史を問う』からの引用である。
― 米軍は沖縄に上陸して占領地を確保するごとに、「米国海軍軍政府布告第一号」を発して、日本の行政・司法・立法の停止を宣言しました。同時に、「布告第二号」(戦時刑法)を出し、「日本帝国旗ヲ掲揚シ或ハ其ノ国歌ヲ唱弾スル者ハ処罰スル」としています。この規定は沖縄の非日本化(分離支配方針)の一環と考えられます。また、植民地や戦地からの、日本人の引き揚げ(強制送還)は1945年10月から始まっていましたが、「奄美諸島と沖縄県人は非日本人」として取り扱われていたことは注目すべきです。たとえば、台湾では日本本土籍の人を「日僑」といい、沖縄出身者は「琉僑」といって区別していました(これは米軍の意図にそった国民党軍の対応とされている)。沖縄を分離支配する意図が、すでにこの時期に明示されていたことになります。―
 その分離政策は次の事実からも知ることができる。
 軍政府は、1950年に住民の直接選挙を司令したうえで、奄美、沖縄、宮古、八重山に「群島政府」をつくらせた。しかし、当選した本島の平良知事が「祖国復帰」を唱えたため、辞任させ、そのわずか4か月後に、群島政府に代わる中央政府「琉球臨時政府」を立ち上げ、知事を、軍政府が任命する「首席」に変え、住民の直接選挙制を廃止した。この「祖国復帰」の提唱は、沖縄の分離支配に反するものであったから、それを封じる軍政府の対応は素早かった。その後の50年代に、前述のような住民の私有地強奪と基地の拡張建設がいっそう進んだ。

(つづく)