坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち 17/10/12

疎開へ
 沖縄戦が始まる前年の1944年になると、沖縄では米軍の沖縄本島上陸が、怖れとともに、ささやかれるようになった。サイパンなど南方諸島での日本軍の敗北の事実が島民の間に知られるようになったからだった。さらに、中国戦線から部隊を沖縄に移す噂が伝わると、いよいよ米軍の沖縄上陸が現実味を帯びてきた。沖縄が戦場になれば、四方を海にかこまれた沖縄では逃げ場がない、島を出るしかない、と住民はしだいに、そう思うようになった。
 やがて怖れは現実のものとなった。小磯国昭内閣は7月7日緊急閣議を開き、沖縄本島、奄美大島、徳之島に居住する老人、子供、婦女子を日本本土と台湾(当時の日本の植民地)に疎開させることを決定し、鹿児島県と沖縄県両知事にその旨通達した。
 その計画は7月中を疎開の実施期間とし、那覇港から本土に8万人、台湾に2万人を避難させるというもので、疎開に該当する者として、17歳から45歳までの軍に協力できる男子を除く、老人、子供、婦女子に限るとしていた。
 この計画を知らされた沖縄県知事と県当局は当惑した。疎開を実施するとしても、県は輸送船を用意することはもちろん不可能である。船舶の用意は政府に頼らざるを得ない。だが果たして、政府は10万人の疎開者を乗せる船舶を那覇港に差し向けることができるのだろうか。
 県当局は難しい判断を迫られた。当時沖縄近海には、しばしば米軍の潜水艦が出没していたからだった。一方、住民は、住み慣れた島を離れて本土や台湾で暮らすことへの不安をぬぐい切れなかった。さらに、疎開に際しては「敗戦思想に陥ってはならない」とする政府通達があったことから、県知事としても、住民にたいして、米軍上陸を予告したうえで疎開を指示することもできず、ためらわざるを得ない。
 とはいえ、沖縄県としては、政府の指示に従わざるを得なかった。警察部に特別援護室を設けて、学校などをとおして島民に疎開を勧めることになった。ところが、疎開を希望する者がほとんどなく、沖縄で暮らしていたわずかな他府県出身者だけが申し込むにとどまり、しかたなく、警察官や県庁職員の家族から疎開させることになった。
 その後は、戦況の悪化とともに、米軍の沖縄上陸がいっそう怖れられるようになる。沖縄が戦場になるのであれば、家族が別れ別れになることもしかたない、家族が分散していれば、家族全員の犠牲は免れるであろう、と考えるようになった。そうしたなか、疎開を希望する住民が徐々に増え、乗船にそなえて荷物をまとめ始めた。だが、輸送船が那覇港にいつ来るのかがわからない。じっと通知を待つしかなかった。
 疎開の期間とされた7月が過ぎ、その翌月になって、対馬丸、曙空丸、和浦丸の3隻の輸送船が那覇港に寄港した。8月21日、5000人の島民を乗せた三隻の最初の疎開船が那覇港を出港することとなった。

対馬丸遭難
 那覇港を出港した翌日の8月22日、対馬丸の甲板で学童たちは引率の先生の指示に従って、救命胴衣をつけ、不安な面持ちでうずくまっていた。対馬丸は那覇港を出てしばらくは無事に航路をたどった。
 その日の夕刻、津島丸は悪石島近海を航行していた。艦の指揮官が、「この近海がもっとも危険な水域である。だから注意事項をきびしく守るよう、今日一日を無事に過ごせば、きっと無事に鹿児島に着くことができる」と、甲板の一段高くなったところから学童全員に安心と注意をうながした。
 日が落ちると、月明かりだけの甲板の闇のなかで、学童たちは無事に疎開できることをねがいながら、不安げに友人たちと話し合っていた。
 不運が襲ったのは、その日の夜10時過ぎであった。爆発音のような轟音が数回轟くと、船体が揺らいで、しばらくすると甲板が傾きだした。立つことができない。先生が大声をあげている。学童たちは斜めになった甲板の上を滑りながら、次々と海の上に投げ出されている。船が沈むのだから、海に飛び込まなければならない。月明かりで微かに見える海の上には、おびただしい大小の破片が浮き沈みし、重油が流れ出したのか、引火して何かが燃えている。
 対馬丸は6754トン、最大10ノットという低速の老朽船であった。その陸軍が所有する運搬船に、学童1661人が乗船し鹿児島港へと向かっていた。その航路で、対馬丸は米軍による三発の魚雷によって撃沈され、1558人の学童が犠牲となった。救助された学童はわずか177名であった。犠牲となった学童の数が多かったのは、護衛のために航行していた「宇治」「蓮」の二隻の護衛艦が危険を避けて、漂流する人々を救助せず、そのまま鹿児島港に向かったからだったといわれている。海に投げ出され漂流する遭難者たちは、漂流物にすがりながら、鹿児島から救助船が来るまで一夜を過ごすしかなかった。なかには、三日間も一週間も漂流して無人島に流れ着いた遭難者もいた。
 当時9歳の学童だった女性が、その時の様子を手記に記している。
 ―ドシンというものすごい音に目が覚めて、気が付いた時には、船体はほとんど沈みかけていた。救命胴衣を身にまとい、甲板にひとかたまりにいたはずの家族5人の姿が見つからない。わたしは恐ろしさと心細さにわめきたいのをぐっとこらえて、暗闇のなかを家族を探し求めた。船体は無残に破壊され、人々は波の渦と大小さまざまな物体に挟みうちにされながら悲鳴を上げ、助けを求めていた。
 人々のうめき声や、泣きわめく声が遠く細く聞こえていた。私が、あっちへ行こうか、こっちへ逃げようかと、おどおどしていると、従妹の時子に出会った。私に出合ったとたん時子は声を張り上げて泣きわめいた。もちろん私も泣きたかった。
二人は沈みかけた船の上で流れてきた醤油樽に取りすがることができた。ときどき大波がドッとかぶさって来る。
 煙突がぐらぐらと倒れていった。子供をおぶったまま海へ落ちていく夫人の姿も見えた。そのときである。ふいに大波がおおいかぶさってきて、時子が醤油樽から手を放してしまった。一人ぼっちになった私は、どうすればよいのかわからず、おろおろしながら自分の体にぶつかって来るものを取り払うのに精いっぱいだった。
 救命胴衣を頼りに泳いでいった。そこでは、一つのイカダをなん十人もの人が奪い合っている。一夜明けると、乳飲み子の男の子以外は全員女性であった。そのうち女の子は、私を含めて二人だけだった。漂流二日目の昼過ぎ、あちらこちらに、幾人かが組みになって漂流していた。漂流中、流れてきた竹筒を拾い、なかに入っていたすえたご飯を一口ずつ食べた。ふたりの老女が、ひとことも言わず死んで流されていった。40歳ぐらいのおばさん二人もいない。いつどうしていなくなったのかわからない。うっすらとした夜明けが近い頃、島はすぐ目の前にあった。イカダは島をめがけてどんどん流されていった。島に着くと、イカダを降り、四つん這いになって陸地へ向かった。私たちは助かったのです。一週間目にやっと自然漂着したのです。

 この対馬丸の遭難は極秘とされ、沖縄では固く口留めされていた。だが、うわさは徐々に広がった。そのため疎開を希望する住民はその後しばらく途絶えた。しかし、1944年10月10日、那覇が米軍の空爆で1200人が犠牲になると、疎開を希望する住民は増大し、県当局が疎開を勧める必要がなくなった。その結果、1944年7月から45年3月までの疎開者数はおよそ7万人に達した。(資料は『戦争と沖縄』岩波新書1981年刊から)

もう一人の証言者
 対馬丸遭難について一人の証言者を紹介したい。3年ほど前に、地域誌「日時計」の編集部が埼玉新聞のインタビユー記事を目にして、対馬丸の生存者が同じ春日部市の庄和地域に居住していることを知り、取材したことがあった。その後は、当地春日部市での「平和フェスティバル」(年一回の市民による平和イベント)に講師として招いたりした。
 当時、天妃国民学校の生徒であった仲田清一郎氏は、疎開の求めに応じて、8月21日、対馬丸に乗船する。その仲田氏の証言によれば、乗船した天妃国民学校の生徒100人のうち、生き残った生徒は、仲田氏をふくめてわずか3人であった。
埼玉新聞のインタビュー記事〈2014年8月17日付〉は次のようなものだった。
 「対馬丸に乗り込んだ二日目の夜、ドカーンという爆音が、寝ていた仲田さんを襲った。理性というより本能にせかされ、甲板に出た。漆黒の闇のなか、ずるずると海水に沈んだ。海面に出たところで丸太につかまった。船は沈んだようだった。仲田さんは何が起こったかわからぬまま海面を漂った。丸太に子供を背負った女性がつかまってきた。暗闇の中、何を話したかおぼえていないが、心が和み、勇気を得たように思う。だが力尽きたのだろうか、気が付くと、女性の姿はなかった。海面に浮かんでいた人影がどんどん減っていく。上級生が仲田さんをいかだに引き上げてくれた。近くに島が見えた。上級生が、イモを取ってくると言って泳ぎ始めたが、波間に浮く頭の影はまもなく消えた。
 いかだは幾度も高波にさらわれ、仲田さんは、いつしか一本の孟宗竹に半身をあずけ一人で浮いていた。意識が遠のき、視界が暗くなってきた。漁船が近づいてきたところで意識を失った。気が付くと、鹿児島県内の病院にいた」

なぜ疎開船が攻撃されたのか
 春日部市で市民が発行する地域誌「日時計」の記述をもとに考えてみたい。
ハーグ海戦条約〈1907年ハーグ国際平和会議での決定)が、交戦国の病院船など非軍事的な船舶への攻撃を禁じている。であるのに、米潜水艦はなぜ対馬丸を攻撃したのか。それを考えるとき、まず、米潜水艦が、攻撃目標とした船舶が疎開船であることを知っていたのかどうかが問題となるだろう。
 それについて、「高性能の潜望鏡で多数の学童を確認できなかったはずがない」(當間栄安著『対馬丸遭難の真相(琉球新報社)』)とする見方と、それが困難であったとする立場とがある。魚雷攻撃の任にあったアーサー・カーター元二等兵曹が琉球新報の取材に応じて次のように話している。「艦長も子供たちの乗船は知らなかった。夜間に見分けることは困難であった」。どちらが正しいかを判断するのは難しい。
 注目すべきは、ハーグ条約が「軍事物資の輸送に従事する敵国商戦」を攻撃目標とすることを認めていることである。だとすると、沖縄・奄美近海で軍事物資を輸送する27隻の船舶が米軍の魚雷攻撃を受けていたこともあり得ることであった。
では対馬丸はどのような船舶だったのだろうか。
 対馬丸は陸軍徴備の輸送船として、1944年4月から6月の間、マニラからハルマヘラへの軍事輸送に使われたことがあった。しかも、疎開船として出航する直前の8月19日に、第62師団2409名の兵と馬40頭を本土から沖縄に移送していた。そのような役割を担う対馬丸であれば、対馬丸が疎開者を鹿児島へ運んだ後、地上戦に備えて軍事物資を沖縄まで運ぶ計画があったことも想像されるのではなかろうか。
 以上から、米潜水艦ボーフイン号が、航行中の船舶が軍用船対馬丸であることは目視によって確認できたことが推測される。同時に、対馬丸の船内、あるいは甲板に子供たちが乗船していることを確認できたかどうかは定かではない。
仮に子供たちの姿を見たとしても、対馬丸が軍用の輸送船であることには変わりはない。それを知る艦長の命令によって攻撃が行われた可能性は否定できない。それが,當間栄安氏の「多数の学童を確認できなかったはずがない」という見方とも符合する。
 対馬丸は国際法上、攻撃対象として認められる「敵国商船」であっただろう。とすれば、政府と軍部は、対馬丸が軍事輸送船であるが故の危険性を、当初から認識すべきではなかったのか。1944年7月から45年3月まで、対馬丸と同時に航行した2隻をふくめ、延べ187隻の疎開船が航行したなかで、撃沈されたのが対馬丸1隻であった事実に照らすと、遭難の原因がどこにあったのかが、おのずと見えてくるのではなかろうか。
 仲田清一郎氏は講演のなかで、最後にこのように語っていた。
 「当時はショックを受け、主体的なものの捉え方ができなかった。怖れのようなものは今でも残っている。心のなかに悲しみが沈殿している。今こそ基本的なものを再認識する必要がある。沖縄だけでなく日本のあらゆる所で苦労があった。犠牲となった人々の礎があり、今の日本が繁栄している。歴史を隠すことなく、私たちは認識しておかなければならない」