坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 沖縄ノート(11)強奪の戦後③   18/02/10

本土決戦
 沖縄戦は本土決戦を遅らせるためだったのだが、軍部に「本土決戦」の戦意も覚悟もなかった。1945年1月20日、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定し、「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を目的とすることになった。そのため、沖縄守備隊に対して持久戦が指示された。だが、敗戦が必至となって天皇は狼狽し、国体護持にこだわり続けた。
 近衛文麿の上奏を無視し終戦の宣言を遅らせた天皇は、首里が陥落する直前の5月14日、最高戦争指導会議を開き、ソ連を仲介とする終戦工作を指示し、近衛文麿をソ連に赴かせようとした。その「平和交渉」の第一の条件が「国体ノ護持ハ絶対ニシテ一歩モ譲ラザルコト」、第二の条件が「最下限ノ小笠原、樺太ヲ捨テ、千島ハ南半分ヲ保有スルコト」であった。だがソ連はとり合わず、日ソ不可侵条約の期限切れとともに、8月6日、満州へ侵攻する。ソ連を仲介者とする終戦工作は、望むべくもない相手知らずの神頼みであった。

米国の対日戦略
 8月9日、テニアン島を飛び立ったB29は、北九州小倉市上空を覆う厚い雲のため、目視 による投下ができず、第二の目標都市長崎に原爆を投下した。その帰路、燃料が不足し、読谷飛行場で燃料を補給、テニアン島に戻った。
 敗戦後に、参謀次長河辺虎四郎中将ら使節団が伊江島飛行場に到着後、米軍機に乗り換えた後、マニラに向かった。マッカーサーはマニラで停戦協定にサインすると、そこから読谷飛行場に立ち寄り、翌30日、厚木に向かった。米国の極東戦略を示唆する当時の動きである。
 では米国の対日戦略はどのようなものだったのか。以下は林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
 アメリカは太平洋戦争中から、世界をにらむ基地計画の検討を始めていた。6月22日、その戦後基地建設計画が、統合作戦本部で本格的に議論されるようになるのは1945年5月からであった。アジアでは、ハワイ、フィリピン、マリアナ、沖縄が最重要基地とされ、小笠原や中部太平洋のいくつかの島々が、それに次ぐ重要基地建設地としてリストアップされている。その計画に従って、沖縄では46年7月に陸軍と空軍の基地建設計画が立てられ、1950年度会計予算に5000万ドルを超える基地建設予算を計上した。日本本土については、冷戦の進行、朝鮮半島の分断、中国での共産党政権の成立という情勢変化のもとで、日本を軍事拠点として確保する意思が米政府内で強まり、それが48年10月、国家安全保障会議で決定された。これは冷戦状況下で日本の共産化を防止し、政治的・経済的安定をはかることを主眼とするもので、対日政策の転換を示すものだった。(要約は筆者) ―

キーストーン
 1950年6月、北朝鮮が軍事境界線を超えて韓国に侵攻し、朝鮮半島での攻防戦となった。米陸海軍がそれに参戦すると、中国が人民義勇軍を派兵、戦況は軍事境界線を巡って一進一退となった。その朝鮮戦争当時、嘉手納を飛び立ったB29は北朝鮮を無差別爆撃し、米政府は幾度となく北朝鮮への原爆投下を企てた。米朝対立の根は朝鮮戦争にあったといえるだろう。
 翌年7月に休戦協定が結ばれるのだが、北朝鮮軍、中国軍の戦力を思い知らされた米国は、以後、日本本土を極東における反共の前線基地(キーストーン)と位置づけ、同盟国日本に再軍備を指示すると同時に、日本政府に対して、基地使用の許可、施設役務提供を義務付けた。と同時に、沖縄を極東最大の軍事基地とすべく基地建設にとりかかった。
 このように、沖縄は朝鮮戦争時には、すでに最前線の出撃基地だったのだが、その後は、冷戦の進行とともに沖縄の極東戦略上の重要性が高まり、50年代になると基地拡張が急ピッチで進むことになった。とともに、支配者たる米軍政府の沖縄住民に対する姿勢は、いっそう無法で暴力的なものとなっていった。

強奪の光景
 1953年に米国議会が基地建設予算を増額すると、沖縄では、米軍政府が「土地収用令」を布告し、53年に真和志村安謝・銘刈、小禄村具志、55年には伊江島真謝、宜野湾村伊佐浜などで、銃剣とブルドーザーによる私有地の強奪を押し進めた。
 それまでにも、米軍政府は借地料も払わずに、住民が所有する畑や土地を勝手に使っていたのだが、戦後5年を過ぎてようやく生計を立てていた住民の命綱であった畑と土地が、さらに奪われることになった。
 その土地強奪はどのようなものだったのか。瀬永亀次郎氏(故)が自著『民族の悲劇〈1971年初版〉』の中で叙した「青田一夜にして滑走路にかわる」の一節を、長くなるが、そのまま書き移すことにする。強奪の情景を彷彿とさせ、老女の悲嘆が胸を打つ。

 1951年4月のはじめ、南海の空はカラッと晴れ渡り、静かに海風がそよいでいた。沖縄本島国頭村桃原部落民は、土響きを立てて咆哮している重々しい機械の騒音に異常なものを感じてたたき起こされた。あの家からもこの家からもとび出して、現場にふれた子供たちは“ブルドーザーが稲をふみつぶしとるぞ、大変だ、大変だ”とお父さんや兄さんたちにつげ廻った。時を移さず全部落民が現場にむらがり集まった。数台の六屯車が、どこから運び込んだかしれない山石や砂利を投げ下している。ブルドーザーがその後から整地役を引き受けて、おちつき払って砂利や山石と稲穂をまぜっかえし、踏みくだいて進んでいる。部落民が目を見張っている間に、数千坪の青田は打ち固められて、砂浜に生まれ変わった。
 その時である。集まっている部落民の間に動揺がおこった。一人のおばあさんが卒倒したのである。みんなの手厚い看護のおかげで、やっと息を吹き返したおばあさんは、「アキヨナー、ワンターヤ、チャナイガ」― ああー私の田はどうなるのかーとわめき、のろいつづけるのだった。六屯車やブルドーザーにとっては、しかし、そんな出来事は関係のないことだ。基地王の命令で動いているだけの話である。一日のうちに数万坪の青田は、部落民の目の前から永久にその慈母の姿をかき消してしまった。その後3か月もたたないうちに、この土地には東洋一を誇る巨大なラジオビーコンが建てられ、50万ボルトの強烈な電柱は、近隣部落を圧して戦闘準備に余念がない。
 卒倒したおばあさんは、夫が台湾製糖社に務めていて、永いこと台湾で共稼ぎをしていたが、敗戦1年前、郷里の桃原に家族をひきつれて帰ってきた。台湾で貯えた金と夫の退職金で例の田を買い入れ、その田は老後を支えるためのいのちとして、大事にまもりつづけていたのである。そのうち米軍の沖縄上陸となった。この戦争のため真っ先に夫がたおされた。つぎつぎに子供たちも沖縄戦で殺されてしまった。残されたのはおばあさんの心細い生命と三千坪の田んぼだけとなった。細りゆく生命と田んぼを大切に、おばあさんはまったく天涯孤独のくらしを営んでいたのである。自分の生命と同じ田んぼ、しかも、もう十日もすれば、刈り取れる青田を、そのままもっていかれたのだから、卒倒したのも不思議ではないだろう。
 いうまでもなく、青田を収奪されたのは、このおばあさんだけではなかった。基地王は土地収奪の1か月前、国頭村長を通じて「これらの地域は軍用地に指定されたから、20日以内に農作物は全部撤去すべし」の口頭指令を出している。あと1か月も待てば普通の通り収穫できる稲を、命令だとはいえ、ただちに“ハイサヨウナラ”で刈り取る農家が一人でもある筈がない。地主たちは相談の結果、稲や西瓜の撤去を拒否したのである。
 基地王は目論見書の変更をするほど心のゆとりを持っていない。ただちに数台の6t車とブルドーザーの現地派遣となり、黄金色に色づき、重くたれ下がっている稲を踏みにじって、基地の土台を築き上げたのである。台無しにされた西瓜や稲など農作物の損害保障が、基地王の支出清算書に見当たらなかったことは、もとより確かである。撤去命令違反について起こる責任は、すべて違反者の負担とする但し書きによるのであろう。
 左手にハンドルを軽くおさえ、右手はわしづかみに、農民が精魂打ち込んで植え付け、収穫を待っているメロンをほおばりながら、稲穂や西瓜をかみ砕き、冷然と青田の上を進撃する自由の防衛軍、こういうアメリカ将兵の姿を想像するのは、ちょっと困難であろう。他国人民に、死の自由への扉を開かんとするものは、いつの日か、開かれたその扉の入り口に立っている我が身を発見するだろう。
 死の自由をおしつけられた民族は、必ずそれをなしとげる。
 なお、滑走路と言われていた強奪された田畑は、いま、VOAの基地とされている。
(VOAはヴォイス・オブ・アメリカの頭文字、駐留米兵、軍属向けのラジオ放送=筆者) ―

瀬永亀次郎 1907年沖縄県豊見城村生まれ。戦後、沖縄人民党結成に参加し、書記長、委員長を歴任。54年米軍による沖縄人民党弾圧事件で懲役2年の刑で投獄される。56年那覇市長選に当選するが翌年の米軍布令により追放。70年の国政選挙で衆議院議員に当選する(以後86年衆院選挙まで7期連続当選)。73年日本共産党中央委員会幹部会副委員長。90年名誉幹部会委員。米軍基地撤去、祖国復帰、主権回復という沖縄県民の願いを胸に闘い続け、「反米抵抗のシンボル」と称される。2001年10月5日死去。

(つづく)