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山田 朗/明治大学文学部教授 / 名古屋高裁イラク派兵違憲判決の意義 08/07/11

 

名古屋高裁イラク派兵違憲判決の意義(3)

 

明治大学教授・山田 朗

2008年6月13日 映画人九条の会での講演

 

 

前提としての札幌地裁「箕輪訴訟」

 

 もう既に、かなり私の証言の内容について踏み込んでお話をしておりますが、先ほどから言っています札幌地裁の訴訟というのは、通称「箕輪訴訟」と言います。箕輪登さんという人が原告代表で始まった訴訟なんですね。

 

 私は2006年の5月8日に、札幌地裁でイラク派遣・派兵差止訴訟、通称「箕輪訴訟」で証言してきました。このときは陸上自衛隊がポイントで、さっき言ったようにあまりにも復興人道支援とは無縁な装備だということを証言したんです。

 

 この箕輪登さんという方は、私もどっかで聞いたことがある名前だなと思っていたんです。この人は、元防衛政務次官をやっていた人で、要するに自衛隊を作った人なんですね。自衛隊側の人なんですよ。自民党の国会議員で、政務次官までやった人ですから、まさに自衛隊側の人。防衛省、当時の防衛省側の人なんですけれど、この人が「自衛隊というのはそういうもんじゃないんだ。専守防衛のためにあるものであって、自衛隊が海外に出ていくなんてけしからん」と言って訴訟を始めちゃったんですよ。これは大変なことですね。

 

 私は実はそれ、全然結びついていなくて、箕輪登さんという自民党の国会議員がいて、いわゆる国防側、結構タカ派だというふうに頭にあった。こっちで訴訟を始めた箕輪登さんとは同姓同名の別人だと思っていた。ところが、同一人物であるということで驚いたんです。

 

 私が証言をした2006年の3月ぐらいから、いろいろと打ち合わせで札幌に何回も行ったんですけれども、箕輪さん、いよいよ病気が進んでしまって、もう危ないという段階だったんですね。3月にお会いしたとき、病院に行ったときには、もうほとんどお話できない状態でした。ただ、こちらが言うことはまだ分かるけど、それをはっきりと口に出して答えることができないというような、そういう状態でした。一応、話も分かるということなので、いろいろとお話をして、こういう証言をしますよということを申し上げると、非常に強く反応されて、言葉でははっきりはしませんけれど、よろしく頼むという感じの反応だったんですね。

 

 5月8日に証言したときは、もう本当にきわどい段階で、その1週間後に亡くなられるんです。ところが、証言をしてきたことを病院に行って報告して、こう手を握って、「証言してきました。こういうことで証言してきましたよ」と言ったら、すごく強くぐっと握り返してきたんです、箕輪さんが。もう、こっちの言っていることは分からないんじゃないかなと思ったんですけれども、やっぱりそうじゃなかったんですね。頼むぞ、という意思が私の方に伝わってきました。

 

 そういう点では箕輪さんと私は2回しかお会いしていませんけれども、やっぱりこの訴訟に関わって、自衛隊を肯定している人であっても、今の自衛隊の在り方に疑問を感じている人は結構いるんだなということを強く感じたわけです。ですから、箕輪さんとそういう約束をしたと思っているんです。この訴訟は箕輪さんの意思を継いで、箕輪さんは亡くなられてしまいましたけれども、この訴訟に関わっていくことの意味があるんだと、私なりに理解しました。

 

名古屋高裁での証言のポイント

 

 名古屋高裁の私の証言要旨というのが、今日お配りしたレジュメの後半部分にあります(本講演録の末尾に掲載)。これは弁護団がまとめてくれた証言要旨です。実際は非常に長く証言をした──途中休憩を挟んで、確か13時から証言して夕方までの証言でしたから、結構長かったんです。途中で休憩も一度入れていますので、結構長くて、問答集として載せますと大変長くなってしまいますので、弁護団の方でうまく要領よくまとめてくれた証言要旨を挙げておきました。

 

 そもそも私が証言に出るということは、意味があるのかどうかというところから証言を始めるしかありません。私は別に現代軍事の専門家というか、自衛隊関係者でもありませんし、イラクに行ったこともないわけですし、いわゆる軍事評論家みたいな立場ではありません。しかし、歴史的に見るということの意味があるんだということを、ちょっと言わないと、なんか場違いな証人が出てきたという感じになってしまいますので、そのことについて説明をしました。

 

 それから、イラクで行われていることはやはり戦争であろうと。歴史的に見ても、戦争じゃないと言って戦争が行われたことはいっぱいある。ここが私の、ちょっと出番なんですけれども。

 

 歴史的に見ると、これは戦争じゃないんだぞって言っていたけれど、本当は戦争だったというのは満州事変とか──。日中戦争というのは、今では日中戦争と言いますけど、当時は支那事変と言って、戦争じゃないんだと言い張っていたわけですよ。しかし当事者が戦争じゃないと言っていても、実態として戦争であるということは、過去にいくらでもあります。それは、その規模とか、あるいは犠牲者の数とか、あるいは政治性ですね、政治的な目的によって行われているというようなことから具体的に判断すべきであって、例えば国家と国家が戦っているから戦争だ、というような単純なことではないんです。

 

 現在イラクでは、国家と国家が戦っているわけではないんです。もっと複雑な状況です。例えば、そういう割り切り方で戦争でないという言い方は、歴史的に見てもおかしい。ゲリラ戦争というのも19世紀以来、これは一般的な戦争の一形態であるということをお話をしました。

 

 それから、バグダッドやバグダッド空港はもう戦闘地域なんだと。さっきの空爆のこととか、航空自衛隊の輸送機がフレアを装備しているということを見ても、これは戦闘地域であると言っていいんじゃないかということですね。

 

 それから、これを言うために多分私は呼ばれたんだろうと思うんですけど、輸送とか補給というのは、戦争においては最前線で行われている戦闘と一体不可分のものである。だから、実際にはそこで犠牲が出ることも多いわけですし、輸送や補給をやっているから安全だなんて、およそ言えないわけですね。

 

 今日は映画人九条の会の集いですから映画の話で言うと、「母べえ」の山ちゃんはどういう状態で死んでしまったのか。まさに輸送中に輸送船が撃沈されて、沈没して溺れ死んじゃうということですよね。実際の話、多いんですよ。海没と言うんですけど、海に没するです。そういう、実際に戦うとかという以前に亡くなってしまう人は非常に多いわけです。海没者の数はなかなか計算が難しいんですけども、40~50万人はいます。ですからそういう点では、やっぱり輸送ということを戦闘と切り離して考えてはいけないということですね。「母べえ」の話は裁判ではしませんでしたが、輸送だとか補給だとかというものと、戦争、戦闘とは絶対に切り離すことができないんだということですね。

 

 ましてや航空自衛隊は、アメリカ軍の指揮下、アメリカ軍のいろんな手配のもとに輸送を行っているということで、アメリカ軍と一体化しているということと。また、武装兵員を輸送しているということ、あるいは医薬品なんかを輸送しているということ。

 

 医薬品は、なにか人道的な意味合いもあるような感じがしますけれど、これは多分アメリカ軍が使う医薬品です。空輸しなきゃいけないというのは、かなり緊急性を有するものだと思います。そういうものが民間人に使われているんだったら、堂々と発表すればいいわけですよね、国が。「いや違います。これは民間人が使っているんです」というふうに発表すればいいわけです。それなら復興人道支援だって言えるわけですけど、発表できないということは、これは多分、軍事的な使い方をしているということですね。

 

 で、武力行使は当然憲法9条第1項で否定されているわけですけど、それと一体化している、不可分のものというのも、これは違憲じゃないのかと。これはですね、1996年に当時の大森法制局長官という人が、そういう答弁を国会でしているんです。武力行使だけではなくて、何が許されないかというと、武力行使と一体化している行為も許されないんだと。これも憲法違反なんだ、それも許されないんだということを、別に今日のこととは全然関係ないシチュエーションで、法解釈として言っているんですね。こういうことを言っているんだから、実際にやっていなかったとしても、直接やっていなかったとしても、武力行使と一体化していれば、やっぱり憲法違反と言えるんじゃないかということをお話しました。

 

 それから、なんせ情報を出してこないというのは、シビリアン・コントロールにも反するじゃないかということですね。実際、国側が裁判に出してきた資料も、ほとんど墨塗り状態です。墨塗り教科書というのが終戦後ありましたけれども、あれよりもっと真っ黒です。あれはどっか読めますよね、墨塗り教科書は。全部墨を塗ったら何も使えないわけですから。けれど裁判の資料は、何にも使えないです、本当に。ほとんど98%くらいは墨なんです。何にも使えない。何を運んだのか。墨を塗ったということは、何を運んでいるか、ということです。そこに、墨だったんです。ところどころ空いているのは、要するに日本本国から視察に誰か、国会議員とか行きますよね、その人を運んだとかというのは空いているんです。それから、なぜか保育器を運んだというのが墨が塗られていなかった。保育器は軍事的には関係ないので良しとしたんでしょうけれども、それだったらもっと墨を塗らないで見せてくれれば良さそうなものなのに。そういうようなことで、復興人道支援だというなら、もっと出せるはずなんですよね。

 

 アメリカの戦略に対応した自衛隊の変容は、さっきも言いましたが、この15年間で海上自衛隊は1.5倍になり、遠征能力が高められ、輸送能力が高められ、補給能力が高められた。例えば、輸送艦「おおすみ」なんていうのは、元々古くなった

 

1,380トンクラスの輸送艦が、「おおすみ型」に更新されて8,900トンになったんですね。こういう増え方をするものですから、1.5倍ということになるんです。それから補給艦「ましゅう」、これは13,500トン。これは現在、海上自衛隊の中で一番大きな船ですね。

 

 というふうに、どんどん更新──新しくしますということで、巨大な船ができ、性質自体が変わってきちゃう。大きくなるということは、要するに燃料搭載量が増えていくということで、やっぱり遠征能力を増強してるということなんですね。それは国民的議論は全く不十分であって、やはり今は司法が憲法判断を下して、現状チェックしてくださいということを申し上げました。7番目のこと(自衛隊はアメリカの戦略に沿って変容を遂げていること)は、原告弁護団が作ってくれた証言要旨の中には十分書かれているわけじゃないんですけれど、これは確かに申し上げました。

 

 別に、最後にすがるのは裁判所ですと言ったわけじゃないんですけれど、しかし裁判所がやはり判断を下さないと、どんどんずるずる現状が変わっていってしまうんじゃないかという、そういう危機感を表明しました。

 

 

名古屋高裁判決をどう生かすか

 

 

 名古屋高裁の判決をどう生かすかという最後のところなんですけれども、やはりなんと言いましても、イラクの実態が分からない。それから自衛隊の実態が分からないというのが、根本にあるんですね。

 

 ですからこの裁判は、非常にそこを踏み込んで判断しようとしたわけです。イラクの実態とは何か、自衛隊がやっていることの実態とは何か。やっぱり、もっと私たちはそこに関心を払わなきゃいけないんですね。

 

 イラク派遣だと言って、その行くところと帰ってくるところはニュースになりますけれども、行って何をやっているのか、何になっているのかということが実際重要で、もちろんそれは税金によって行われているわけです。ですから本来、それは最大限公開しなければいけないはずなんです。お金の使い道の問題ですから。ところが、最大限公開するんじゃなくて、最大限隠しているんです。それは要するに、お金の使い道を隠しているということですから、ここにもっと私たちは大きな注意を払わなければいけないのではないかということです。

 

 全国で多くの差止訴訟が行われていて、この名古屋高裁の判決をテコにして更に展開するとは思われるんですけど、やはり、イラクや自衛隊の実態ということはもっと広く知られて、関心を持たれないと、「なんでそんな訴訟やってんの」ということになっちゃう。実際、賠償を得られなかったのになんで喜んでいるの、ということになっちゃうんです。別に原告の中で、本当に賠償してもらいたい、お金を貰いたいという人はほとんどいないわけです、現実には。むしろそういう状況を憂いているから、裁判を起こしているわけです。

 

 逆に、賠償は認めるけれど、今の自衛隊やイラクのことは問題ないという判決が出ちゃったら、それはそっちのほうが問題です、原告としては。困った判決だということになるんです、原告にとってはですね。やはり戦争の実態、戦争の歴史も含めて、多くの市民が知るということが重要です。

 

 戦争というのは、人間が懲りずに繰り返してきた病気みたいなものです。さっきの「サイボーグ009」じゃないんですけれども、あれだけ痛い目にあって、もう二度と戦争はこりごりだと思っても、やっぱり時間が経つと、それが緩んできてしまうということですね。

 

 ですから、私たちが現実の戦争ということと、やはり過去に遡って──そこには多くの人が命を落として、私たちに何かを伝えようとしているわけです。それをどう汲み取るか、ということです。

 

 よく、何か戦争を否定的に言うと、「そこで死んだ人は犬死にだったのか」と言って怒り出す人がいるんですけど、犬死ににするかどうかは、私たち次第なんですね。その人たちの死を、また繰り返すようなことをしてしまったら、それこそ、最初に死んだ人たちは犬死にということになっちゃうわけです。「009」にも、まさにそういう部分がありました。

 

 ですから、その時点では確かに犬死にと言えば犬死になんです。「母べえ」の山ちゃんみたいな好人物が、なんであんなふうな死に方をしなければいけないのか。あの死そのものには、なんの意味もないというシーンなんですよね。ですから、それを私たちがどう生かすかということにかかっているわけでありまして。

私たち市民が軍事を監視する、コントロールするという力を強めていく。その武器になるのが憲法9条で、それを具体的に、今度「平和的生存権」ということが強く謳われましたので、それを使って軍事をコントロールしていく。

 

 軍事というのは、誰かが理性的に常にうまくコントロールしてくれるというものじゃないんです。必ず道を踏みはずすという性格があるんですね、これはね。これはもうほとんど構造的なものと言っていい。遺伝子と言っていいかもしれません。ですから、それをさせない。放っておいたらやっぱり駄目なんです。常に監視にさらされていないと、変な方向にいってしまうおそれがあるんだというふうに見たほうがいいと思うんです。

 

 ですからそれを私たちが、自覚していく、広めていくということこそが一番重要なことで、市民がちゃんと軍事をコントロールしよう、監視しようという意欲を失ってしまうと、知らないうちにとんでもないことに突き進んでしまうことなるんだろうと思います。

 

ちょっと時間が過ぎてしまいましたが、私が今日用意したお話は以上です。どうもありがとうございました。(拍手)

 (文責・映画人九条の会)

 

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