戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)同期入社の鈴木章夫を悼む 16/11/05

明日へのうた]より転載

 同期入社の「鈴章」こと鈴木章夫が10月31日、肺がんで死んだ。既に彼岸に行ってしまった「マチ」こと町田祐三、「おおい君」こと中村実、「あんちゃん」こと藤田充の仲間入りだ。これで10人の同期が6人になった。鈴章の訃報を聞いたという山田健一から電話あり。「おれ、今年1月に胃がんで全摘手術を受けて療養中なんだ」。山田の話によれば大平太郎はどうやら認知症になっちゃったらしい。

 田中信太郎には3年ほど前、取手の斎場で後輩の葬儀があって久しぶりに会ったが元気がなかった。彼は長男に先立たれてから同期の旅行にも参加しなくなっていた。滝沢直幸、石塚博幸は消息途絶だ。60年前、全員詰襟の学生服姿で入社式をした写真が残っているが、とうとう1人になっちゃった感じだ。

 鈴章は川崎工業高校卒というれっきとしたエリートエンジニアのはずなのに、おれと同じ超機械音痴。スパナの使い方も知らない。こいつ一流工業高校でいったい何勉強してきたんだ。1年の養成期間を経ておれは輪転課に、鈴章は鉛版課に配属された。鉛版課は18キロの鉛版を溶解釜に投げ込む力仕事だ。

 10人の同期生は忘年会や納涼会、節目の温泉旅行などでしょっちゅう集まった。集まるとおれは「労働者は団結しなければならない」と演説をぶった。中村などはそれに反発して「おれたちは背広着て有楽町に通っているんだから労働者じゃない」と言い張った。鈴章はクールな目で双方を観察していた。

 毎日新聞労組はユニオンショップで、入社1年後に正社員になると同時に組合員になる。おれはとたんに1人で職場新聞を発行(月刊で5号まで続いた)。その活動が認められて、青年部書記、職場執行委員、新聞労連東京地連書記長ととんとん拍子に役がついた。その間鈴章はじっと満を持していた。

 鈴章が所属する紙型・鉛版職場班はずっと会社派が実権を握っていた。彼はなかなか執行部には出られなかった。それが1975年の大住広人執行部で突然本部執行委員・職分制対策部長に選出された。職分制とは68年に導入された毎日型職務給のこと。組合は差別と組合弾圧の温床として猛反対していた。

 結局職分制は鈴章在任中の77年3月で廃止される。職分制対策部長としては大金星だ。印刷技術の変化で鉛版職場がなくなり、従業員はそれぞれ異職種に配転された。鈴章は編集の整理部や調査部で結構いい仕事をした。ずっと独り者だったが定年になってから愛妻俊子さんと巡り合った。幸せそうだった。

 今日5日午後6時から鈴章のお通夜が営まれる。風邪をひかぬよう暖かい格好で行こう。