戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

この次は何かありそではしご酒 18/10/08

明日へのうたより転載

 「はしご酒まづ一軒目秋の暮れ」(8日付『毎日俳壇』)。思わず笑っちゃった。まるで「吉田類の酒場放浪記」だ。そういえば吉田類の方も俳人だった。酒と俳句というのは相性がいいのかな。おれも昔よくはしご酒をした。20代は安保デモとはしご酒で過ぎた気がする。今考えれば幸せな時代だった。

 毎日新聞は1966年まで有楽町にあった。高卒で56年入社のおれは10年間ここに通った。有楽町はいつもはしご酒の一段目。駅前のすし屋横丁からすべては始まる。夕刊印刷が終わるのが午後4時、すぐ風呂に飛び込んでインクと油の汚れを落とす。4、5人の仲間と示し合わせて居酒屋の暖簾をくぐる。

 煮込みとイカ刺しを肴に渦巻正宗を湯呑で3杯。湯呑の底に渦巻の模様があるから渦巻正宗と呼ぶ。うまいからって4杯飲むとこちらの目ん玉が渦を巻いてぶっ倒れる。薬用アルコールが主成分の強烈合成酒だからだ。外へ出ると秋の夕暮れはまだ明るい。開通したばかりの地下鉄丸ノ内線に乗って新宿へ。

 今は丸の内線も銀座線も日比谷線もすべて銀座だが、当時は西銀座と言った。フランク永井の歌に「西銀座駅前・・・」という歌詞があるはずだ。ちなみに「有楽町で逢いましょう」は57年に駅前に開店したデパート「そごう」の宣伝のためにつくられた。「小雨に煙るデパートよ」というわけだ。

 おれたちのグループは61年までは池袋駅西口のマーケット街のトリスパーが根城だった。それが区画整理でマーケットが取り壊され、なじみの店が新宿花園に引っ越した。花園飲食街は「青線」と呼ばれていた。58年の売春禁止法で「赤線」(公認の売春街)もなくなったのだが、呼び名は残っていた。

 8人も座れば満員のカウンターだけの店でトリスのオンザロックを飲んだ。おれは酔うとまだはたちにならない店の子に人生論を吹っ掛けた。トリスバー従業員の労働条件改善のため労働組合をつくれとけしかけた。それに同調したのかみんなが狙っていた可愛い娘がおれとのデートをしてくれた。おれは夜勤、彼女の仕事が始まるまで新宿御苑の芝生に寝転んだりした。キスくらいしたのかな。

 当時おれは赤羽に住んでいた。はしご酒の最後の段はその赤羽だ。東口のすずらん通りから少し横丁へ入った小料理屋。おれより一回り年上の大柄で美人のママさんがツケで飲ませてくれた。――ママさんは肝臓を痛めて70歳を前にやせ細って死んだ。おれの人生はしご酒も最上段(その上は天国)に近づいている。