戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(103) 18/07/02

明日へのうたより転載

 私が「母の胎内」と言ったのは多分、その年の4月3日に母戸塚せんが83歳で亡くなったせいだと思う。脳梗塞による腎不全だった。父陽太郎は10年前の1983年1月30日、脳血栓症で先に逝っている。

 私は中国旅行から帰ってすぐ、慶陽化学公司側の世話役をやってくれた姚鵬山副主任宛てにお礼の手紙を書いた。それに対する返事がその年の暮れに届く。2元の中国人民郵政発行の切手が貼ってあった。文面は中国語なので私には読めない。川村好正さんに相談すると、知り合いの中国人留学生に翻訳を頼んでみるという。しばらくして日本語文がファックスで届いた。

 戸塚章介先生
 あなたからのお手紙は10月12日に受け取りました。中国人民の週間から言えば、遼陽東京陵はあなたにとって〝第二の故郷〟となり、あなたのお手紙のなかにあふれている故郷への想いと、故郷の人々への友愛は、私を深く感動させました。
 遼陽の建設はまだ相当に遠く、このためにあなたのお国の工業化の水準に比較すれば、まだ相当に開きはあるものの、われわれの民族とわれわれの子孫のために中国は必ずや一生懸命建設に努めなければならず、永久に平和保持しなければなりません。平和の環境があってこそ初めてわれわれの建設の速度はスピードを増すことができます。
 われわれの友情のために、私はあなたとあなたの奥さんが、遼陽、千山、鞍山、瀋陽などの地に観光にこられることを歓迎します。 敬具
 あなたの故郷の姚鵬山 中華人民共和国遼寧省遼陽東京陵一区76棟2号房

 これで私のルーツ探しの旅を終えることにします。ご愛読ありがとうございました。

あとがき
 父は一度だけ遼陽桜ヶ丘の同窓会に出たことがある。帰ってきて「あの頃威張っていた将校たちが戦後30年も経つのにまだ偉ぶっている。もうあんな席に行くもんか」と怒っていた。「関東軍火工廠史」はそんな元将校たちが中心になって執筆・編集・刊行したもの。私の父のようなぺいぺいの視点と違うのかなと思いながら「爆風」を綴った。墓の下の父には叱られるかもしれない。
 1972年2月、新聞労連北信越地連の合理化学習会に講師で招かれた帰り、新潟県直江津市の小林隆助さん宅に寄った。嫁に行った延子さんも含めて歓迎してくれた。
 国民学校で2年生担任だった鈴木久子先生から1975年に便りがあった。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」。
 2012年6月、新聞OB九条の会で企画した「中国東北部(旧満州)の旅」にツアー団長として参加した。ハルピンから大連まで旧満鉄を乗り継いだ6日間。瀋陽(旧奉天)には1泊したが遼陽は素通りした。21世紀の旧満州は都市化と工業化の波に乗ってエネルギッシュだった。