戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(100) 18/06/27

明日へのうたより転載

 一度大陸に残る決意をした私たち、桜ヶ丘にいられないなら国府軍とともに長沙でも台湾でも同行する気持ちが強かった。どんな事情があれ、我々の同志を銃殺した八路の下にだけは帰りたくない。そんな気持ちを伝えるため、吹野信平氏が国府軍幹部のところに談判に行った。

 相手は吹野さんに「私たちは八路軍に捕らわれると死ぬ目に遭うが日本人技術者なら大事にしてくれるはず。心配は要らない」と言う。吹野さんは襟を正して「私たちが望郷の心を抑えて何故残留したと思っているのか。私たちは蒋介石の言葉に感じ入り、国民政府統治への協力を選んだのだ。それが分からないのか。いわば同志である私たちを見捨ててあなた方だけが南方へ去るとは何事か」と詰め寄られた。これには先方も感動し、早速残った私達5家族を台湾へ同行するとして出発の日取りを6月某日と決めた。

 ところが48年5月下旬になって、満州在留日本人は全員日本に送還することになったと居留民会から通知があった。昨年6月にひとまず帰国した高碕達之介居留民会会長の、国民政府と米国の意向を受けた大局的判断だ。私たちも従わざるを得ない。慌ただしく帰国準備に入り、6月5日奉天出発、6月7日葫蘆島着、6月10日日本国籍の山澄丸に乗船、6月16日佐世保入港、翌17日に上陸して各自帰郷した。

 いよいよ奉天を去ることが決まったある日、知り合いのある老人と会った。彼は「30年後にきっとまたあなた方は満州へ来るようになる。今の八路の状態が長続きするとは思わない。また帰ってきてくれ」と懇願された。1980年の現在、中国は変わったのだろうか。何千年来の儒教道徳とマルクス主義は彼らの心の中でどのように消化されたのか。

 奉天の実験室で熱心に机に向かっていたある技術中尉は、実験でなく毛筆で詩を書いていた。詩を書くことが彼の人生の意義だったのだ。住民の1人が運よく廠の役職に就くと、親類縁者が何人も入職する。それが中国の民衆なのだ。八路軍の清潔さは今も続いているのだろうか。峻烈な人民裁判は今もあるのか。我々が接してきた中国の人々は簡単に説明できない深い人間性を持っていた。それを知るには経済だけでも政治だけでも足りない。それらを知った上で、中日両国民の相互理解に立った両国の協調を図らなければならない。それは人類平和に欠くことのできない礎石でもあると信じる》。
 
 このようにして5000人を擁した関東軍火工廠は、日本人全員が引き揚げて官舎も工場もがらんどうになった。