戸塚章介 (元東京都労働委員会労働者委員)終戦(敗戦)記念日に思い出だしたこと 10/08/14

[明日へのうた]より転載

 明日は終戦(敗戦)記念日。65年前のその日、おれは中国東北部(満州)にいた。73-65=8ということでおれは8歳だった。潘陽(奉天)から満鉄で1時間ほど南下したところに遼陽市があり、その郊外に父が勤務する関東軍火工廠があった。火工廠は中国侵略に必要な火薬を中心にした武器弾薬の製造工場。工場には3000人を超える日本人が働いていて本人とその家族のために1万人の日本人街がつくられていた。

  敗戦から10日過ぎた8月25日、工場に派遣されていた関東軍将校の指示で町ぐるみの集団自決が計画され、町の中心にお手の物の火薬が大量に用意された。あちこちの家から火が出て夜空を焦がしている。我が家に火をつけて逃げた人がたくさんいたらしい。おれたちは晴れ着を着て知り合いの家に集まった。大人たちは真っ青な顔で寄り集まってひそひそ話していたが、子どもたちは遠足気分ではしゃいでいた。

  どんな事情で集団自決が取りやめになったのかは分からないが、とにかくおれたちは命拾いした。

  1993年夏、おれは48年ぶりに遼陽市郊外の旧関東軍火工廠を訪れた。案内してくれたのは、労働組合の遼陽総工会幹部だった。「今は遼陽東京陵経済特別区と呼ばれています」との説明。父が働いていた関東軍火工廠は、「遼寧慶陽化学工業公司」となっていた。工場施設は有効に引き継がれていた。海外からの資本や技術も導入して、職工2万人、技術者2340人の大企業に成長。製品は、火薬、化学肥料、石鹸、薬品、ティシュペーパーから清涼飲料まで。おれたちは工場の貴賓室で山盛りのご馳走攻めにあった。

  父が亡くなって27年。おれもそろそろ父の死亡年齢に近づいてきた。父の労働者としての人生は戦争によって絶対的に左右された。おれたちの世代にもいろいろ苦労はあったが、戦争だけはなかった。このありがたみは子や孫に引き継がれなければならない。