戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(99) 18/06/25

明日へのうたより転載

 八路の人たちは上から下まで真面目であった。私の会った中で地位の一番上の人は日本式に言えば検察庁や工業庁の長官であり、下は兵卒であった。しかし八路では職種や階級の別なくいかにも軍人という雰囲気を持っていた。一般に規律は守られ、殊に幹部の身を処することの清潔さと論理的判断の峻厳さには感服した。唯物論に徹していて、疑わしきは実証ができるまで絶対に許さない。ワイロ等は通用しない。情状酌量などはありえない。何事によらずマルクス主義を前提としていた。

 旧火工廠にも政治委員なるものがいて、廠長も厳重に監視されているようだった。これはそれなりに正しく立派なことではあるが、我々留用者を統治するにあたっても、スパイを放ち、デマをまき、壁に耳あり障子に目ありで、果ては互いに信じられなくなり息もつけない陰鬱な日々を送らされたのには参った。

 国民政府側の人たちはどうであったか。私共が直に接したのは軍服は着ていても軍人ではない技術者と、少数の事務屋であった。最高の地位は廠長で、ここには八路と違って政治委員はいなかった。廠長はじめ幹部の多くは上海、南京など南方の出身者で、尉官以上は殆ど大学を出ていた。

 新国家建設に一応の情熱を持っていて、希れには威張る男もいたが、総じて明るく、人なつっこく、大らかであり、言うなれば何千年の歴史ある儒教精神の持主であり、我々と同じ世界の人たちであった。戦後親日的に方向転換した蒋介石の感化だと思うが、我々を迫害するようなことはなかった。

 ソ連軍は満州を荒らしまわって国へ帰った。彼らは中国人、日本人の見境なく犯した。八路はソ連の友人と見られていた。終戦直後に国府軍と八路軍が満州各地で兵を募ったとき、八路側にはごく僅かしか人が集まらなかった。46年にソ連軍が満州を引き払った後、国府軍が断然優位に立ち、南満州から八路勢力を駆逐したのは当然の成り行きだった。住民はもろ手を挙げて国府軍に帰した。

 ところが日が経つにつれ情況が変わってきた。南から進駐してきた国府軍が威張りちらし始める。満州従来人を排斥して政治経済の実権を奪う。加えてワイロは取る、態度が尊大で言葉が通じない。次第に国府軍に対する期待は崩れ去って怨磋に変わっていった。「満州国時代の方がよかった。満州国時代が懐かしい」という空気になる。「やっぱり蒋介石も自分の欲で動くのか」との声も聞こえるようになった。

 勇躍国府軍兵士になった満州の若者たちも期待外れで急速に戦闘意欲を失い、集団で武器を捨て戦線を離脱したり、八路軍に寝返ったりするようになる。一気に満州を席捲した国府軍だったが、1年そこそこで一転して戦線を縮小、敗走するに至った。儒教精神の染みついた満州の人々も八路軍支持へと回った。

 1948年春になると、国府軍が満州で支配している地域はごく限られた都市だけになる。奉天も八路軍に包囲され、西の方から砲声が轟くようになった。兵工廠を統治していた国府軍幹部が1人また1人と飛行機で南方へ去っていく。私たちと密接な関係にあった人も一言も告げずに姿を消した。