戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(98) 18/06/23

明日へのうたより転載

 一般引揚者を見送った国府軍留用者92人とその家族163人は、すっかり寂しくなった官舎街で、寄り添って日々を送った。当初国府軍が企図した火工廠工場再開は見通しが立たない。八路軍との戦闘も次第に雲行きが悪くなるばかりだ。そうなると多数の日本人を家族ごと留め置く理由がなくなる。国府軍は留用解除と全員を帰国させる方向へ方針を変更した。こうして留用者の帰国が始まることになった。

 第一次留用解除者の1人稲月光は46年10月10日に唐戸屯官舎を出発、遼陽、奉天を経由して錦州駅に翌11日に到着した。しかしすぐには葫蘆島へ向かえず、錦県の収容所で24日まで過ごす。土間にアンペラを敷いて寝た。24日早朝に出発して葫蘆島港へ。すぐ乗船する。船はアメリカ籍だがフリゲート艦でなくリバティ型の貨物船「ベンジャミン・フランクリン号」。26日博多湾入口に着き11月10日に上陸した。

 松野徹は第二次留用解除組で、47年5月25日に唐戸屯を出る。遼陽駅で満州紡績などの引揚者と合流して奉天まで到達したが、そこで大きな倉庫に入れられた。約1か月の収容所生活の後、6月30日に奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島へ。日本の貨物船大久丸に乗船。7月2日に出港して7日に佐世保入港、11日に上陸した。

 ほぼ時を同じくして第三次留用解除が行われ、医師の勝野六郎、第三工場の和泉正一もその中に入った。250人いた留用者とその家族は一次、二次の留用解除を経て150人ほどになっていたが、そのうち138人が第三次組に含まれる。第二次と同様まず奉天で収容所へ。そこでほぼ2ヶ月過ごして7月25日に葫蘆島へ向けて出発した。引揚船は日本船籍の大瑞丸。7月27日に出港して佐世保へ。上陸は8月2日。

 第三次組の帰国で旧火工廠残留者は、総責任者だった吹野信平をはじめ加藤治久、鈴木貢、鈴木弓俊、石川浩太郎、武藤茂保ら数人になった。これらの人たちはさらに1年留用生活を続けることになるのだが、その間の事情について「関東軍火工廠史」の編集者である鈴木弓俊が「留用雑感」と題する手記を書いている。敗戦後のソ連軍、八路軍、国府軍に関する感想、批評もあって面白いので抜粋して紹介したい。

 《22年夏以降内線の戦況は、日を追って国民政府軍に不利となり、23年に入ってからは、国府軍の手による遼陽の工場再開は絶望となった。
 私は元々大陸に就職したい希望あったのが、軍人として満州の土を踏むこととなり、「その国の文化を知るには先ず言葉から」と教本を求め、通訳の資格のある軍属氏に話をつけて3、4人で勉強を始めたのは昭和17年であった。しかも「中国語会話」は日本語での議論に転じ、中国語は実用には程遠い状態で敗戦を迎えてしまった。しかも直接中国人と仕事で接渉するようになったのは、中国人と自分自身で交渉しなければ日常の用も足せなくなった22年度以降なので、自分自身の耳と口で中国人に直接あたった期間は1年そこそこに過ぎず「中国を語る」などと、大きな口はきけない。それでもこの短い期間に中国について大きな感銘を受けた。