戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(97) 18/06/21

明日へのうたより転載

 船長は「つまらぬことにこだわって意固地になるな」とお冠。この時とばかりに米泥棒の濡れ衣を証拠を示して告発した。船長は顔面を緊張させて聞き入っていたが、「すぐさま調べるので待ってほしい」と引っ込んだ。暫くして戻ってきた船長は深々と頭を下げて今までの非礼の段を詫びた。そしてこのことは上陸後当局に報告しないよう嘆願する。こちらも真相を分かってくれればそれでいいので承諾した。

 船室のどこからともなく歓声が上がった。一斉に冷たくなったカレーライスを、温かい気持ちで食べ始め、賑やかな会話が戻った。子どもたちは大きな声で「ご馳走様」とスプーンを置く。船は穏やかな航行を続けていた。その夜は上陸を控え、船員と引揚者が入れ混じってのど自慢大会が開かれた》。

 一方第三大隊が乗ったLST―606は7月7日に葫蘆島を出発して、10日には無事博多港外に到着した。しかしそれですぐ上陸とはならず、港外に停泊したまま再度の検疫が行われる。日本の山々が見える。心は逸るが他の引揚げ船で伝染病患者が発生したとかで、検疫は念入りだ。筆者の記憶では全員DDTを噴霧され白いお化けのようだった。もっともお化けたちは嬉しそうに笑っていたけどね。

 12日に博多港内に入ったが、そこでまた検疫、上陸が許されたのは14日午前10時だった。上陸はしたがその日は海岸の松原寮という収容所(休息所)に一泊、15日早朝から復員局で復員手続きを行うことになる。まず所帯主が引揚げ時に満州で交付された罹災証明書、退去証明書を提示して外地引揚証明書を受け取る。これによって新居住地(引揚げ先)への転入手続きや生活物資の特配を受けられる。

 次に引揚げ先毎の外食券(1枚4食分)を受給する。戸塚家は関東地方だから1人8枚である。さらに全国各線に乗車できる無賃乗車券が配られる。引揚者の中には内地旅行に差し支えるような服装の者がいるので、当該者には相当の被服の支給もある。最後に帰郷雑費として1人50円が支給される。

 博多駅からは引揚者専用列車が毎日運行されていた。大阪行き11時46分、門司行き16時04分、名古屋行き19時01分の3本だが、引揚者多数の場合は増発もある。戸塚家は15日午前中に手続きが終わったとしても、大阪行きに乗ることは無理だ。多分夕方の名古屋行きに乗ったのではないか。

 名古屋から東海道線で東京へ向かったはずだ。東京では親戚の家で何泊かしたような気もするがはっきりしない。東京から常磐線、常総筑波鉄道を乗り継いで、今の茨城県常総市、当時の結城郡菅原村へ着いたのはいつ頃だったのだろうか。筆者の記憶では着いた時には小学校が夏休みに入っていた。とすれば、7月20日以降だったのだろう。遼陽・桜ヶ丘を発ってひと月近く、日本の土を踏んでからでも1週間を超える長い旅だった。