戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(95) 18/06/14

明日へのうたより転載

 引揚げ港の葫蘆島は渤海湾に面し、満州と北京を結ぶ交通の要所だ。葫蘆島というが島ではない。瓢箪の形をした小さな半島だ。葫蘆とは瓢箪の意味らしい。日本へ船出するためには遼東半島の先端の大連の方が適していたが、大連は当時ソ連軍の管轄下にあり使わせてもらえなかった。
 
 戸塚家が所属した桜ヶ丘第三大隊は6月28日に東京陵を出発、29日午後3時に錦県駅に着いた。錦県駅は錦西駅のかなり手前の駅で、2万人を収容できる大規模な収容施設がある。施設とはいうが、実際は既に引き上げた日本人の家屋を当てたもので、1軒に何家族か詰め込まれ寝る場所がなく外で寝る人もいた。

 この収容所で7月5日までの1週間滞在した。その間の食事は各自の負担だ。食料は現地の中国人から買うしかない。その値段が日々高騰していた。引揚者は乗船までの費用として1人500円の携行を許されていたが、収容期間がどのくらいになるのか不明ということもあってみんな苦心した。

 7月5日午前4時、第三大隊はいよいよ葫蘆島へ向けて出発することになる。錦県駅から無蓋貨車に乗り、葫蘆島最寄りの茨山駅へ。午後3時に着いてまた収容所だ。この茨山は葫蘆島を見下ろす小高い丘だったらしい。ここに後年、引揚事業を記念する石碑が建てられた。

 茨山収容所には7日まで2日間いた。この間も食事は各自負担である。7日朝収容所を出発して2キロ歩く。港が見えた。日本の船も停泊している。我々が乗るのはアメリカの上陸用舟艇LST-606だ。乗船前、港の広場で最後の携行荷物検査が行われた。検査の終わった順に桟橋に向かう。大きなリュックを背負った行列が続く。戸塚家も父と姉がリュック、母は乳飲み子を背負い、私は亡き妹の遺骨を抱き、5歳の妹は遅れまいと懸命に歩く。乗船するとデッキに立ち止まる暇もなく船底の船室へ詰め込まれた。

 第二工場事務員瀬下信の手記「乗ったのはアメリカのLSTとて戦車を吐き出す軍艦だった。タンクの代わりに我々が筵を敷き詰めたところへ寝ることになった。夏だったからよかった。船はグルっと廻って遼東半島沖を航行中、気のせいか砲声を聞いた様な気がした。赤い夕景の中をイルカが付かず離れず何百何千と空中に舞った。夜は上甲板に集まって船員たちの心尽くしか演芸大会を夜毎楽しんだ。LSTとは便利な船で、夜間海の真っただ中で停まり前方の観音扉を開けると潮風が通り抜けて昼の暑さを忘れる快適な乗り心地だった」。

 船出した日の夕食に麦入りのご飯が出た。涙が出るほどおいしかった記憶がある。おかずが何だったかは忘れた。