戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(94) 18/06/06

明日へのうたより転載

 隊長山口克己少佐率いる第四大隊総勢1054人は6月27日午前8時、集合地点の太子河駅に向けて出発した。太子河駅は旧満鉄大連ー新京線の遼陽駅から旧火工廠に資材を運ぶため敷設された引き込み線の仮設駅である。引揚げ者たちは長年住んだ東京陵の官舎街に別れを告げ、思い思いに歩を進めた。

 第一中隊長の印東和は特大のリュックサックに荷物を詰め込んで妻子とともに歩いていたが、途中で4歳の長女が「もう歩けない」とベソをかいて道端に座ってしまった。夫婦ともに特大のリュックを背負っているので子どもをおんぶできない。かといって荷物を捨てるわけにもいかず途方に暮れた。

 後からどんどん追いこされる。中隊長としてはこれ以上遅れるわけにはいかない。そこへ声をかけてくれたのが顔見知りの南満工専動員学生の岩佐君で、「私のリュックは小さいので印東さんのを背負いましょう」と言って軽々と背負ってくれた。地獄に仏とはこのこと。印東は涙が出るほど嬉しかった。

 全員が太子河駅に到着し照り付ける炎天下で列車の来るのを待ったが、夕方になっても姿を現さない。隊の渉外係が八方手を尽くして連絡の結果、列車到着は明朝になることが判明した。初夏の満州は日が沈むとぐんと気温が下がる。東京陵へ引き返すこともできず、近くの村落で野営することになった。

 (筆者は本ブログで戸塚家の所属した第三大隊の出発も1日延び、その原因は27日が朝から大雨だったと記した。それは第三大隊の幹部だった田中弥一氏の記録によるものである。ところが第四大隊の印東氏は予定された列車が来なかったためという。第三大隊と第四大隊は同時に桜ヶ丘を出発したことがはっきりしている。そうすると出発が1日延びたのは雨のためか、列車遅延のためか、という疑問が残る。

 そこで当時9歳だった筆者の記憶がどうなのか、じっと思い返してみた。私の記憶では、戸塚家の6人は朝日町の人たちとともに鉄道線路を目指した。それは駅というより線路の際で、炎天下にじっと列車を待っていた。雨が降っていた記憶はない。列車は来ない。もう東京陵へは戻れない。夜を徹して線路の際に座り込んでいた。第四大隊のように近くの村落の軒下を借りたような記憶はない)。

印東和の手記。《近くの村落で野営することになったが、我々のような軍隊経験者ならともかく老幼婦女子には苦痛の夜だったろう。真っ暗闇の中を満人村落を訪れ、家屋の土間ならいい方で、大部分は軒下で夜を明かした。翌朝無蓋貨車で遼陽へ行き、駅前広場で荷物検査。午前中いっぱいかかる。遼陽からの列車も石炭運搬用の無蓋貨車。出発したのが28日午後1時。その夜は奉天の貨物駅で貨車に乗ったまま眠る。翌朝奉天を発った列車はその後ものろのろで、葫蘆島のある錦西駅に着いたのは30日の午後だった》。