戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(90) 18/05/28

明日へのうたより転載

 《再び満州に進出して来る日本人のための礎石になろう》と意気込んで留用に応じた松野徹だったが、46年暮れ頃になってみるとどうも気合が乗らなくなった。頼りにした国府軍に勢いがない。工場の本格再開には程遠い。毎日手持無沙汰でぶらぶらしている有様だ。そのうち1947年の正月になった。

 日頃実直な責任者の吹野信平少佐が「正月くらいは酒でも飲もうや」と言い出した。年末に国府軍紙幣で給料が出たばかりだ。部落の中国人に頼んで奉天に行ってもらい、日本酒の4斗樽を買ってきた。唐戸屯の官舎に集まって飲めや歌えの大騒ぎ。警備の国府軍兵士から文句を言われる始末。

 いろいろ手をまわして調べてみると、一旦北方に立ち去った八路軍が南下を始めたらしい。今や国府軍の方が押され気味だ。そういえば、彼ら八路軍はこの地を去るとき、我々に《1年後には必ず戻ってくる》と言っていた。そんなことを松野は思い出してはそれもありうると考えるようになった。

 正月が過ぎたある日、松野は吹野について奉天の満鉄官舎にいる居留民会の高碕達之介会長を訪ねた。高碕は2人に「蒋介石は偉い人物だが、中国の国情は彼の思うようには行かぬのではないか」と感想を述べた。松野はそれが真実だと感じた。国民党と中国共産党の軋轢の中で日本人ができることは何もないのではないか。それなら1日も早く日本へ帰りたい。日本の土を踏みたいとしみじみ思った。

 国府軍の形勢はますます悪くなる。その年の5月になると旧火工廠の工場再開は難しいとみたのか、留用者の一部を帰国させることになった。――留用者の帰国については後述する。

 戸塚家や小林家を含めた一般引揚げの準備は46年4月末から急速に進んだ。遼陽市の日僑善後連絡処(野木善保主任)のもとに東京陵、唐戸屯を一緒にした桜ヶ丘支部(宮川峯雄主任)が形成される。引揚げ事務は桜ヶ丘支部の手で滞りなく進み、吹野信平少佐ら約100人の残留者に心を残しながら出発の日を待つことになった。6月8日からは種痘、チブス、コレラ等の予防接種が実施され、出発間近かが予感された。

 桜ヶ丘支部の一般引揚者は約4000人。これが4大隊に編成された。大隊所属は居住官舎で決められ、戸塚家は第三大隊に組み入れられたと思われる。第三大隊は総員1083人で、市川隊長のもとに経理、書記、渉外、通訳、医療の直属班、その下に7中隊、中隊毎にさらに5小隊の編成である。中隊は150~160人、小隊は30人前後でそれぞれに隊長が任命されている。戸塚家がどの中隊、どの小隊に入れられたかは分からない。

 (戸塚家が第三大隊だったことも推測による。関東軍火工廠史によると、4大隊はそれぞれ日本の帰港地が別々で、第一大隊と第三大隊は博多、第二大隊は佐世保、第四大隊は鹿児島となっている。戸塚家が博多に帰ってきたことは確かだから第一か第三だ。このうち第一大隊長の加々路仁は唐戸屯の第二工場長だった。居住官舎毎の編成だとすると東京陵居住の我が家は第三大隊になるはずだ)。