戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(89) 18/05/27

明日へのうたより転載

 留用者の大部分が唐戸屯地区に集められ、東京陵の第三工場に残ったのは和泉正一中尉ら10世帯になった。工場再開には程遠く、仕事といえば引き揚げていった空き家の残留物整理くらい。時間を持て余す日が続いた。ちょうど作物が獲れる時期で、空き家の庭の家庭菜園には胡瓜や南瓜が食べ頃だった。

 工場要員の1人盤若賢吉は7月のある日、暇つぶしに和泉正一と2人で太子河まで魚釣りに出かけた。大雨の後にできた池を迂回しているうちに帰り路がわからなくなる。2人で高粱畑の中をさまよううちに日が暮れてくる。やっと見つかった鉄道線路。地獄に仏とはこのこと。線路に沿って東京陵に戻ることができた。もう真っ暗で、心配した留守の人たちが迎えに出ており、2人は平謝り。その後は大笑いだった。

 46年秋になると留用者の第一次帰国の話が出てきた。しかし盤若は帰国どころではない。妻が臨月なのだ。唐戸屯には勝野医師がいるが東京陵には誰もいない。急ぎの場合どんな方法で連絡すればいいのか。悩んでるうちにも妻のお腹は金魚のように膨らんでくる。爆弾を抱えているような毎日だ。

 10月半ばには10世帯のうち8世帯が帰国して、残りは和泉、盤若の2世帯になってしまった。その2世帯にも東京陵から唐戸屯への移動通達がくる。明日馬車に荷物を積んで東京陵を離れようとした夜中の2時頃、妻が陣痛を訴えた。和泉中尉と相談してとりあえず唐戸屯まで歩くことに。暗闇の中を歩き始めた。

 箱根山の山道で突然「誰呼(セイヤ)」と厳しい声で誰何された。国府軍の分隊らしい。言葉は通じなかったが妻のお腹を指さしたら「アイヤー快走、快走」と手のひらを返したように親切な扱い。人の情に国境はない。若い兵士の顔から柔和な温かさが溢れていた。

 東の空が白む頃やっと唐戸屯の官舎地区に着き、第三工場で同僚だった中尾宅に落ち着いた。盤若は妻を預けて荷物を取りに東京陵へ戻る。玄関を開けると中国人の女や子どもが蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。彼らにすればどうせ捨てていったものだから失敬してもいいだろうと思ったに違いない。衣類や家具は取られたが、出産用品を入れた行李は無事だった。そこへ迎えの馬車が来た。

 唐戸屯の決められた宿舎に荷物を置き、その足で中尾宅へ直行。「まだだよ」と勝野医師ののんびりした声。妻は苦痛で呻吟していたが盤若は大船に乗った気分になる。どちらが生まれるだろう。男なら命名を偉い人に頼むとして女なら桂子にしよう、と決めた。長い陣痛の末、和泉医師に励まされ、和泉夫人の手により無事女の子が誕生した。46年10月16日、早朝からの目まぐるしい一日が暮れていった。