戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(87) 18/05/17

明日へのうたより転載

 河田哲(南満高専学生)「46年3月、松本百公さんに呼ばれて峨嵋荘というところまで会いに行った。八路軍の急な撤退と国府軍の進攻に挟まれて一夜を日本人宅で過ごした。その時の話し合いで、日本へ帰るより中国に残る方がかえって日本のためになるのではないかということになり残留を決意した」
 玉井林(奉天工大学生)「内地の混然たる状況を想像して、慌てて帰るより内地の安定を待った方が身が処し易いだろうと判断した」

 工場再開を図った国府軍だったが、旧火工廠の工場設備はソ連軍、八路軍により大方接収され主要部分は壊滅状態だった。そのため設備の残存している旧奉天造兵所から東京陵、唐戸屯の各工場へ機器を移転、軍用火薬の製造を開始した。工場の日本人最高責任者は吹野信平少佐で、松野徹は庶務課長、辻薦、和泉正一は工程師、玉井林は工程師補、木山敏隆は技術員などそれぞれ役職を与えられた。

 国府軍はこの工場を「聯合勤務総司令部第九十工廠遼陽分廠」と命名し、黄大佐が廠長として業務を管轄した。幹部の中には女性も含まれ、奉天工大など日本の学校を出た技術者が大半を占めた。このようにして工場生産は再開されたが、設備不足のため本格操業には程遠かった。

 生産準備のために各工場に残存している図面の整理、補充がまず最初の仕事だ。成田正三は中国人の技術者に補充図面の作成を指導したが、製図能力、理解力に欠けほとんど役に立たない。敗戦時に焼却した工場配置図と水道管敷設図を新たに作成する作業も困難をきたした。

 工場によっては全然仕事がなく、自宅待機状態の部署もあった。日本人留用者たちは自宅で豆腐や飴をつくって生活の糧にした。時には太子河に釣り糸を垂れたり、一般引揚後の空き家の残品整理をしたりして日を過ごす。吹野信平をはじめ日本人幹部数人で囲碁を楽しむ姿も見られた。

 仕事らしい仕事としては46年10に設置された研究室がある。国府軍将校の銭が責任者で、日本側は鈴木弓俊が業務を仕切った。中国側から発煙弾の分析法、発煙剤の製造法などについての質問があり、それに丁寧に答えた。ダイナマイトの製造と爆破実験も行われた。

 留用者の子供は30人で、1人は中学生だが他は国民学校の生徒だった。桜ヶ丘国民学校の教師で残留に応じた鈴木久子と岡島悦子が教育に当たった。旧火工廠幹部の伊藤礼三、稲月光、和泉正一、佐野肇、鈴木弓俊らがカバー、勝野六郎が校医として名を連ねた。この桜ヶ丘国民学校は在満教務部の正式承認を得ており、校長・伊藤礼三名で卒業(終業)証書が授与された。

 家族のいる留用者の宿舎は一般引揚者が帰った後の弥生町の官舎を使った。独身者は旧松風寮に中国人独身者とともに住まわされた。食事は金を払って中国人と同じものを食堂で食べた。火工廠幹部将校が住んでいた職員宿舎は中国人高官の住まいとなる。元の吹野信平宅には黄廠長が住んだ。