戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(83) 18/05/09

明日へのうたより転載

 生駒は約2ヶ月の取り調べの末「無実」だと認定されて他の20人ほどの日本人とともに釈放された。生駒には何の疑いで逮捕・投獄され、厳しい責め苦を受けたのかとうとう分からなかった。――筆者は《あの民家の主に嵌められたのではないか》と疑っている。彼は国府軍の進駐を察知し、そちらに付け入るためにお土産を考えた。それで生駒に八路軍からの脱走をそそのかし、八路軍のスパイとして生駒たちを密告したのではないか。これは筆者の推測であり真相は不明だ。

 生駒たちは安東まで国府軍兵士に護送され、奉天行きの列車に乗せられた。奉天に着いたのは1946年1
2月30日で、満州各地からの避難民が集まったバラックに入った。このバラックは国府軍の管轄下にあったが生駒は許可を得て知り合いの満州医科大学の原教授を訪ねた。最初はあまりの乞食同然の姿のせいか玄関払いされそうになったが、やがて「あの京大医学部出の生駒医師ではないか」と判明し、正月3日間世話になった。お餅を食べさせてもらったり衣類は熱湯消毒してもらったりした。

 原教授から東京陵病院の勝野六郎軍医に連絡が行き、47年1月半ば、勝野医師と病院勤務の町田修造の2人が迎えにやってきた。国府軍に生駒の火工廠への帰還を申請して許可を得、1年ぶりに生駒は東京陵の土を踏んだ。東京陵は勝野医師ら数人の留用者以外は帰国した後で、中国人の町になっていた。

 生駒医師らが〝脱走〟した後の医務留用者はどんな道を辿ったのか。生駒医師と林医学生(衛生兵)がいなくなり、荷宮歯科医も病気のため東京陵に帰ったため一行は看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田、岸本ただえの5人だけになる。このうち藤野は途中で東京陵に戻り、岸本も病弱のため21年夏に一般引揚者とともに帰国し、残りは坂、須本、大塚の3人になった。

 この3人の消息を知らせる本人からの手紙が「関東軍火工廠史」に収録されている。
 1950年1月25日発信の坂典代の家族あての手紙。《お母さま、兄さん、芳美さん。お懐かしうございます。お母さまもご無事で内地にお帰りなされたことと信じ、筆をとっております。(中略)私もお陰様にてどうやら無事に今日まで過ごしてきました。言葉の分からない風俗習慣の違ったところにて随分苦労をしましたけれど、現在はどうにか慣れてやっていけるようになりました。

 雪降る遼陽でお別れ致しまして以来、満州各地を歩き、有名な万里の長城を目前に仰ぎつつ、歩いて越えたのも一昨年の末にして、黄河を渡り、揚子江を渡り、現在は広東省の雷州半島まで来ています。自分ながらもよくここまで歩いてこられたものだと驚くくらいです。ここは1月というのに日本の夏と同じ気候です。蚊や蠅も沢山おります。バナナやトマトなどの果物類も豊富ですが、やはり内地のようなお餅や味噌汁、梅干しなどは見受けることができません。そんなことなどいつも皆で話し合っては、懐かしき故郷、そして親、兄弟を偲んでおります》。
 坂はこの手紙を出した後同じ留用者の男性と結婚、荒井典代となって53年7月に帰国している。