戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(80) 18/04/30

明日へのうたより転載


 松本百公は戦争末期に学徒動員され関東軍火工廠に配属された。中国語に堪能な青年である。もともとから火工廠を運営していた将校たちとは一味違った目で八路軍を観察していた。彼が「関東軍火工廠史」に寄せた「中共軍留用者第二次出発から帰国まで」と題する手記から「中共軍幹部の横顔」を見てみよう。

 《王篷原軍工部長は長春(旧新京)の出身。北京精華大学卒業の科学者で、自ら共産軍に参加。蘇文廠長は瀋陽市(旧奉天)の出身。昭和6年9月18日の満州事変勃発時は東北大学3年生。日本の暴挙を怒って中国本土に行き、共産軍に入る。また政治委員江涛は南方華僑を父に持つが、父の生き方に不満を抱く。自らシンガポールで沖仲士のような苦力を数年間経験したのち共産党に入党。政治工作員として人民解放の運動に従事。周明副廠長は日本に留学、東京工業大学在学半ばにして帰国し、共産軍に参加した。

 いずれの幹部にも共通して言えることは、共産主義・共産党が中国を救う唯一の道だと確信している点である。イギリス、ドイツ、フランス等欧州諸国は中国に対する侵略者、アメリカは領土的野心はないが市場としての中国を狙い、日本はアジアの国でありながら中国を植民地とする野望を逞しくしている。ただ社会主義ソ連邦のみが中国の友邦である。人民のために服務することを信条として、中国革命のために一身を捧げる、と彼らは常に明言する》。

 ちなみに松本は新中国建設後も残留し、中国政府から労働英雄の称号を贈られ1953年に帰国している。その間の経過については本稿でのちに綴ることにする。

 第二次留用組の板坂技手夫人静江は46年3月17日、乳児を抱き5歳の長女由紀子の手を引いて東京陵を馬車で出発した。弓張嶺というところで汽車に乗り本渓湖へ。そこからまた馬車の旅となる。長白山の麓を通行中、由紀子の体調が悪化。呼吸が止まったりまた動き出したりしていたが、大きな川原に着いたところでついに心臓が止まった。亡骸だけでも火葬にしてと政治委員の江涛にお願いする。馬車を止めて木材を積み重ね、石油をかけて火葬にした。一行の中の山中勇七郎が白木の骨箱をつくってくれた。

 8日目、長白山の雪解け水が氾濫し馬車が飲み込まれた。馬車には荷物の上に板坂夫人と乳飲み子の曄子だけ。馬夫が懸命に岸を目指すが濁流には逆らえない。板坂夫人はもうこれまでと覚悟を決め、曄子を抱きしめて岸の夫と長男に手を振った。その時八路軍兵士が5人、濁流に飛び込み馬夫と協力して馬車の向きを変えることに成功。やっと岸にたどり着いた。

 通化に着き、元満州製鉄の青山荘に旅装を解いた。翌日の夜、板坂夫人は曄子を抱いて、得能中尉と長男が亡くなった現場のお風呂に入った。以外に広くて清潔な風呂だが電気は暗かった。得能の長男が落ちたという熱湯の湯舟はもうもうと湯煙を立てていてまるで地獄の窯のようだ。板坂夫人は手を合わせ黙とうした。