戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(78) 18/04/24

明日へのうたより転載

 
 徳能は湯船に落ちた子どもを救いあげ、夫人に手渡す。自分は板の間に頭を抱えて座り込んだ。じっと痛みを我慢している様子。全身大火傷だ。子息の通孝は泣き声も立てられずに3時間後に事切れた。徳能中尉は医師の手当てもできず、一晩中呻きながら朝を待った。朝8時に板の上に布団を敷いた急造担架に乗せ、小林新之助、弟の信夫、間下守、飯野久夫の4人で丘の上の陸軍病院へ担ぎ込んだ。

 全身真っ赤、崩れそうな水泡が痛々しい。治療といってもなす術はなく、脱脂綿に油薬をつけて布で巻くだけ。5本の指も癒着している。看病の小林にかぼそい声で「水をくれ」と言ったのが最後で、夫人に看取られながら事故から2日目に死んだ。亡きがらは裏山に馬車1台分の薪を積んで火葬にした。

 4月上旬、国府軍の進攻を避けて一行は石峴へ向けて通化を離れた。石峴では旧東洋パルプ工場が本拠地になった。着いた日は、狭い事務室に布団を敷いてすし詰めで横になる。夜中、徳能夫人が赤痢のような症状を発して皆から心配されたが1週間ほどで回復した。やがて工場内の日本人官舎に移る。ここはオンドルも完備、風呂場やだいどころもあってやっと人間らしい生活に戻れた。

 小林たちが石峴の旧東洋バブル工場で製造したのは八路軍が戦闘に使う手榴弾だった。材料も工作用道具も近隣の旧日本軍工場からの調達だ。小林はオンボロの木炭車に八路軍兵士と同乗して、朝鮮国境の龍井へ行ったことがある。龍井には旧日本軍飛行場があり、木製の戦闘機が放置されていた。雑草を踏み分けて格納庫に入る。必要工具がきちんと仕分けして保管されている。日本軍隊の几帳面さだ。爆薬は日本軍が遺棄した砲弾や投下弾からTNT火薬を抜き取って使った。

 第二次留用組に加えられた学徒動員組の松本百公は1946年3月17日朝、八路軍とともに移動を開始した。石川少佐、重田中尉、板坂、松野両技手、工員の山中、川北、小林常雄、学徒動員の緒方、時吉、松本がメンバー。資材を積んだトラックが次々に出発。松野たちの乗ったトラックがその後を追った。

 東京陵付近で3人連れの人影と行き違った。板坂夫人が「あれは吹野さんたちよ」と指差す。長く遼陽で拘束されていた吹野信平、川原鳳策、松野徹が釈放されて東京陵に帰るところだ。これから八路軍と先行きの分からない旅をする松本たちと、八路軍に釈放され自由の身になった吹野ら3人。大きな声で別れを惜しんだ。

 峨嵋荘という村で八路軍の江涛政治委員と合流、列車で宮ノ原に着きそこから通化へ向かって馬車の旅となった。馬車旅の一日目に板坂技手の赤ちゃんが揺れる荷台で窒息死した。それが3月26日。政治委員の江涛は国民党軍の追跡を怖れて旅を続けようとしたが、日本人一行は赤ちゃんの遺体の火葬のため出発を延期することを要求。頑なな意思を察した江涛はこれを受け入れた。

 翌日警戒を厳重にして出発。警戒の兵士が国民党のスパイを2人逮捕する。情勢は緊迫しているようだ。しばらくして解氷期の河に馬車がはまって動けなくなる。若い松本たちが馬車の荷物を下ろし、馬車のわだちを手で回してなんとか河から脱出する。やっと通化への道の半分、興京という町に着いた。