戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(72) 18/04/12

明日へのうたより転載

 つい最近の話だが、今年3月24日、31日の2回に分けてNHKがドラマ「どこにもない国」を放映した。原案:ポール・邦昭丸山、作:大森寿美男、主演:内野聖陽、木村佳乃。満州・鞍山市の昭和製鋼所社員だった丸山邦雄が、満州全域で建設会社・新甫組を営む新甫八朗、新甫組の社員武蔵正道と組んで150万在満邦人の日本引き揚げに奔走する内容だ。敗戦後の飢えと略奪に喘ぐ人々の姿が生々しい。

 当時外相の吉田茂やGHQ総司令官のマッカーサー元帥に直接会って、早期引き揚げを懇請する。ラジオを通じたり決起集会を開いたりして世論にも働きかけた。これが功を奏して1946年3月16日、GHQは「引き揚げに関する基本指令」を発し、日本政府に引き揚げ促進を指示した。そして46年4月、ついに引き揚げ第一船がコロ島から出航する日がきた。

 そんな話が進んでいるとは旧火工廠の人々は全く知らなかった。しかし八路軍が撤退し、国民政府が駐留するようになった頃から引き揚げの可能性について何となく空気が変わって来たのを感じてはいた。空気の変化は瀋陽(旧奉天)や遼陽からもたらされた。瀋陽に東北日僑俘管理処が設けられ、その下部組織の瀋陽日僑善後連絡処が満州全体の日本人遣送事務を統一して行うことになった。

 さらに遼陽では敗戦直後に発足した遼陽日本人居留民会が遣送事業向けに改組され、遼陽日僑善後連絡処となる。連絡処主任には遼陽居留民会会長として信望の厚かった野木善保氏が任命された。遼陽連絡処は業務の全てを遣送事務一本に絞り、国民政府当局との具体的な折衝を開始した。

 45年8月15日の日本敗戦時海外には、軍人、軍属353万人、一般人300万人の計653万人が居留していたといわれている。これは当時の日本人口の1割に相当する。これらの在外邦人は戦争の過程において進駐あるいは居住したのだから、居住地が日本領土でなくなったからには即時全員引き揚げさせなければならない。ところが日本政府は無責任としか言いようのない態度に出た。

 日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏をした。そのポツダム宣言第5項の(5)には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」との明記がある。ところが在外一般人についての規定はない。それをいいことにして日本政府は外務省を通じ、8月14日付で在外公館あてに「居留民はできる限り現地に定着させるべし」との指示を発する(「三カ国宣言(ポツダム宣言)受諾に関する訓電」)。まったく無責任な指示であり、棄民宣言そのものである。

 日本政府のこのような姿勢が満州からの引き揚げを遅らせたことは間違いない。150万人むを超える在満一般邦人のうち、日本への引き揚げが叶わず異国で亡くなった人は23万5000人(うち満蒙開拓団8万人)、残留孤児・残留婦人2万人といわれる。その原因をつくった日本政府の責任は重い。