戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(69) 18/04/05

明日へのうたより転載

 吹野信平のもとで川原鳳策とともに旧火工廠のリーダー的役割を果たしていた浜本宗三が2月上旬、八路軍に拉致された。国民政府軍への内通容疑だった。

 浜本たちは日本居留民の安全、確実に祖国に帰還させることを期して会議を開いていた。佐野肇はある夜の会議に出席を求められた。部屋に入ると、吹野、川原、浜本ら十数人の幹部が顔を揃えていた。そのうちの1人から居留民内部の動向が報告され、内部崩壊を防ぐためそれぞれの持ち場で教育宣伝活動を行うことが確認された。また正確な情報の収集の必要性から新京、奉天、大連に2人組の調査団派遣も決まった。

 佐野は浅野中尉と組んで奉天に行き、国府軍幹部に会うという任務を与えられた。年明けから国共内戦が激化し、現在火工廠を支配している八路軍がそのまま支配を続けられるかどうか危ぶまれる。国府軍の支配に変わることも想定して伝手をつくっておいた方がいいのではないか。浜本たちはそのように考えた。国府軍との内密の接触は佐野たちと別のところでも試みられた。その際「お墨付き」と称される文書を国府軍側から渡されることがあり浜本はそれを書斎の本の間に挟んで保存していた。

 八路軍に拉致された浜本宗三の社宅が徹底的な家宅捜索に遭った。そして書斎から「お墨付き」が押収されたのである。万事警戒怠りない浜本にしては軽率だったが、八路軍は端から「お墨付き」の存在を知っていた気配がある。例の十数人の会議が秘密を保たれていたものかどうか。誰かが八路軍に密告したのではないか。疑えば疑えるが、事後になっては真相を究明する手立てはない。

 遼陽の八路軍施設に留置された浜本だが、取り調べはほとんど行われなかった。八路軍の反共分子に対する扱いは、取り調べもせず長期間留置場に放置し、本人が精神的に困憊するのを待つ。もしそれでも改心が認められなければ罪状を並べて処刑する。清水隊の佐藤少尉や少年義勇軍の神田中隊長はそうやって処刑された。浜本宗三も3月18日、太子河の川原で銃殺され死体は遺棄された。

 浜本の遺体のそばに唐紙大の立札があり、そこに「浜本大尉は強力な火薬を製造し多数同胞を殺傷した」と罪状が書かれていた。浜本は技術将校であり火工廠の指導者の1人だった。太子河の川原には浜本のほかに遺体が2体あり、1人は板橋柳子少尉、もう1人は堀内義雄青年だった。

 板橋少尉は吹野信平や川原鳳策とともに拘禁され、吹野たちが釈放された後も留置されたままだった。東京陵の官舎で隣り合わせの米田穣賢は《板橋さんは中支戦線で負傷、一度帰還したが再召集で我々の918部隊に配属。碁が好きでそれも徹底的な喧嘩碁。顔に大きな傷跡があった。それが八路軍に嫌われたか、中支戦線の勇士に対する報復だったのか。誠にお気の毒なことだった》と述懐している。板橋少尉の罪状は「火工廠において同胞労働者を虐待した」というものだが、具体的には何ら指摘がない。

 堀内青年も吹野、川原らとともに遼陽の収容所に入れられたが、「国民党に内通した」と罪を認めて翌日釈放された。その足で新妻のいる東京陵に戻ったが、日系八路の密告で再び逮捕。今度は釈放されずに留置が続き、ついに銃殺された。堀内青年が国民党員であったことは間違いないということだ。