戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(67) 18/03/30

明日へのうたより転載

 敗戦時火工廠には918部隊のほかに清水中尉を隊長とする300人の中隊が駐屯していた。隊員中10人が在満現地召集。その1人朝枝周爾の手記。

 《8月25日、あの忌まわしい夜。隊員の1人が東京陵病院に入院していました。清水隊長から「本隊は火工廠の集団自決となればそれに加わらずに出発し、ソ連軍の指示に従って集合場所の海城へ向かう。入院中の隊員は重態であり、行動を共にできないので、出発の合図があったら銃殺して本隊に合流せよ」と命令されました。まったく参りましたが、浜本大尉らの働きで自爆が回避されほっとしました》。

 清水隊の幹部は清水中尉以下、隊付少尉の佐藤利博、曹長1人、班長を任務とする伍長が4人、兵長が2人であった。佐藤少尉は大正時代の志願兵で、軍隊の経験のないまま除隊、その後は東京王子の兵器廠に勤務していた。45年2月に49歳で召集され渡満、火工廠駐屯の清水隊に配属される。剣道の達人で、軍隊の規律には無頓着な好々爺として兵たちに親しまれていた。

 46年3月初め、佐藤少尉は武器隠匿の嫌疑で八路軍に連行され過酷な訊問(拷問)を受ける。最後には精神に異常をきたすようになったらしい。

 3月14日ないし15日の正午過ぎ、唐戸屯梅園町山本区の石原二三区長は八路軍兵士の呼び出しを受けて山本区の西広場に向かった。広場には1本の柱が立っていて清水隊の佐藤少尉が後ろ手に縛られている。10人ほどの兵士に将校がなにやら号令。兵士たちは銃を構え、30mくらい離れた位置から発砲した。遺体はその場で引き渡され、太子川の河原で荼毘に付された。石原区長は遺骨を引き取り、加藤治久、辻薦らと通夜を営んだ。何故か2人の日系八路も加わった。

 銃器隠匿の容疑で恐怖の取り調べを受けた木山敏隆の手記。《鉄と称する八路軍政治部員の尋問は峻烈を極めた。彼らは通化事件の再発を恐れていたものと思われる。長時間の取り調べの最後で「お前は銃殺だ」と宣告された。執行官らしい兵士がモーゼル銃で背を小突く。雪の降る深夜約30分、戸外を引きまわされた。無実で殺されるのかと思うと無念さでいっぱい。家族のこと郷里のこと等頭を去来する。

 今撃たれるか、もう撃つのか、緊迫した心理は説明不可能だ。恐怖の行進はぐるっと回って拘禁されていた建物に戻る。そして再び拘禁。芝居だったのか。しばらくして再び呼び出される。取調室に入ると、何とそこに浅野中尉、江島朝乃さんがいる。政治部員の鉄が入ってきて「無罪釈放だ」と嫌みたっぷりに言う。午前5時頃箱根峠を越えて東京陵へ。東京陵の官舎街にも雪が積もっていたが、自宅の玄関前はきれいに雪かきしてある。八路軍兵士の出迎え。また拘引かと身構えたが、彼らは各家庭に分宿していた兵士だった。妻も子どもも無事。分宿兵士の軍規は厳正に守られていたそうだ》。