戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(64) 18/03/25

明日へのうたより転載

 八路軍に収容されていた川原鳳策は日本風旅館から「興農合作社」と看板が掲げられた別の建物に移動させられた。吹野信平と国民党スパイと称する孫某も一緒だ。清水隊の板橋柳子、インテリの竹村一郎はどこへ移されたのか不明である。ここでは収容者は名前でなく番号で呼ばれ、川原は63番だった。

 興農合作社での川原への尋問は思想的な内容に変わった。まず「お前は9.18当時何をしていたのか」と訊かれる。9.18とは1931年9月18日、関東軍が奉天郊外柳条湖付近で満鉄線路を爆破、それを中国軍の仕業だとして満州全域で中国軍攻撃を始めたことを示す。八路軍としてはこの日が中国侵略の起点だと考えられている。川原が親がかりの学生であったと答えたらそれ以上の追及はなかった。

 次に天皇制への姿勢を問われた。「お前たちは何故天皇陛下万歳を唱えて死ねるのか。天皇制がお前たちに何をしてくれるのか」。これには陛下の臣である帝国軍人として川原は精一杯の反論を試みた。すると訊問者は「天皇の名で日本軍は我々同胞の血を啜り肉を喰った」と川原がぞっとするような目で睨んだ。

 いつ果てるとも知れぬ虜囚の日々だったが、3月に入るとだいぶ空気が変化してきた。同部屋の孫某に言わせると「国府中央軍が新京と奉天を取りかえした。もうすぐ遼陽にやってくる」とのこと。そう言えば遠くに聞こえた砲声がだんだん近くなってきた気がする。そして3月中頃のある日、川原は突然「お前は無罪だ」と釈放された。同じ収容所にいた吹野信平、中国人の孫某も一緒だ。途中から収容されていた蘇文廠長の秘書の松野徹も含まれていた。日本人の釈放組は残雪の道を一路東京陵へと急いだ。

 川原や吹野とともに釈放された松野徹の、拘束から釈放までの1カ月は思わぬ展開の連続だった。2月19日昼頃、八路軍政治部長から「今から宿舎の点検をするので同行してほしい」と言われついていった。まず会計の福田少佐の家。出てきた奥さんに断りもせずに土足で上がり込み、押入れから戸棚まで中身をひっくり返して点検する。次に隣の山口少佐の家でも同じような捜査。そしてまた隣家と点検は続く。

 「今日はこれで終わり」と政治部長がさすがに疲れた声で宣言したのは、もう冬の陽が沈む時間だった。松野はその足で唐戸屯の民会役場に寄りそこにいた数人とお茶を飲んだ。「宿舎の点検に立ち会ったけど、嫌な役目だね。不愉快でしたよ」松野はそんな愚痴をこぼした。そこへ自動車が止まる音。「一体なんだろう」。外へ出てみると消防自動車に乗っていた10人ほどの八路軍兵士が松野を取り囲んだ。

 「お前松野だろう。用事があるからこの車に乗れ」と両脇を抱えられて消防車に乗せられた。車はゆっくり走りだした。憮然としていると「心配することないですよ」とはっきりした日本語。振り向くと八路軍の兵服の日本人青年がニタリと笑った。車は遼陽市内に入り、興農合作社と看板を掲げた建物の前に止まる。建物の中に誘導され事務所のような部屋で数時間待機させられた。