戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(63) 18/03/24

明日へのうたより転載

 川原鳳策が遼陽の収容所で八路軍による取り調べを受けていた2月下旬、東京陵朝日町の戸塚家を痛切な出来事が連続して襲った。まず父陽太郎の大怪我である。父はその頃汽缶工場で働いていた。汽缶工場が火工廠の中にあったのか、それとも独立した工場だったのか分からない。どちらにしても真冬の満州を生き延びるためには、スチーム用の蒸気づくりは5000人の居留民にとって命綱だったはずだ。

 その日父はボイラーに石炭を投げ込む作業をしていたのだと思うが、詳しいことは分からない。生前の父に聞いておけばよかったのだろうが、多分父は話したがらなかったと思う。思い出したくない記憶なのだろう。はっきりしているのは、巨大な鉄のタンクが転げて父を壁との間に挟んだということ。それだけは筆者が子どもの頃(多分母からだと思うが)聞いて記憶に残っている。

 すぐさま同僚が駆けよって助け出し、東京陵病院へ担ぎ込んだ。外科医はソ連軍に連れていかれていていない。町の接骨師が呼ばれたらしい。仲間が母に連絡したが、母は妊娠9カ月で動きが取れない。12歳の姉和子が病室で父に付き添った。父は事故の一瞬柱の隙間にはまりこんだらしく、奇跡的に打撲傷だけで済んだ。

 父の入院中のある日、三寒四温の温にあたる穏やかな午後だった。満人部落から駄菓子売りが日本人街へやってきて、極彩色の飴や餅菓子を玄関先で広げた。妹の悦子(4歳)が飴を欲しがった。母はなけなしの小銭を取り出して飴を買った。私や栄子(5歳)の分まではない。悦子は喜色満面で飴をしゃぶった。

 その夜だった。悦子が突然激烈な下痢に襲われ、全身痙攣を始めた。顔が真っ赤で高熱にうなされているようだ。母が私に言いつけて小林さんの家へ行き助けを頼んだ。小林さんの奥さんと延子さんが駆け付けてきて病院に連絡。消防車で病院へ運ばれた。父の隣のベッドに寝かされた悦子はもう昏睡状態だった。医師も看護婦も手の施しようがない。看護婦の説明では疫痢らしいということだった。

 私たちはベッドの周りで見守るしかなかった。悦子が昏睡から醒めて薄眼を開けた。唇を動かす。かすかな歌声が漏れた。「むかしむかしうらしまは たすけたかめにつれられて りゅうぐうじょうにきてみれば・・・」。そこで歌は止みそのまま呼吸が止まった。2日後、悦子の遺骸は吉野山の麓で荼毘に付された。

 小林さんの奥さんや近所の主婦たちは「悦ちゃんがお父さんの身代わりになったんだよ」と母を宥めたが、母は飴を買って与えたことを後悔していつまでも気落ちしていた。見かねて、父母が仲人をした小平さんの若奥さんがわが家に来て家事を手伝ってくれた。父は1週間ほどで退院したように記憶している。それから半月ほどした3月21日、母は末の妹順子を自宅の部屋で産んだ。元気な産声を聞いて近所の人たちは「悦ちゃんの生まれ変わりだ」と母を励ました。母もやっと元気を取り戻した。