戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(56)  18/03/09

明日へのうたより転載

 火工廠には150人の少年開拓義勇軍の隊員がいた。その1人田淵順三郎は愛媛県出身で当時16歳。満州の地に「王道楽土」を建設するという国のスローガンに惹かれて入隊し、1945年春に関東軍火工廠に配属された。

 8月15日、ラジオの玉音放送の後神田中隊長は「君たちをご両親から責任を持って預かったが、このような事態になった。何としても無事親の元へ送り届けたい。自分を信じてついてきてほしい」と訓示した。目的も目標も一気に吹っ飛んだ少年隊員たちはたた呆然と立ち尽くすのみだった。

 隊内はたちまちボスの支配するところとなり、リンチが毎夜横行、結果としては失敗したが脱走者も出た。田淵少年も些細なことでボスの意を損ね、足が立たなくなるほど殴られたことがある。中隊長の部屋に泣き込んだところ、隊内の事情を知らなった中隊長は大変怒り、木刀でポスとその一派を制裁した。そんなことがあって隊内の暴力行為は下火になっていった。

 やがて八路軍がやってきた。田淵少年は友だちとともに物珍しさで出迎えた。日本兵から分捕った三八銃を持った兵士が10人ほど、他は鍋、釜、食糧を担いで続く。彼らはそれまで少年義勇兵が寝起きしていた宿舎に入り、自炊を始めた。義勇軍の少年たちは日本人家庭に分散して寄宿する羽目になった。八路軍の駐留目的は日本軍の隠匿武器の摘発にあるようだ。連日連夜火工廠幹部が呼び出しを受け、取り調べられた。

 45年12月30日、各家庭に分宿していた少年たちを集合させて義勇隊としての餅つき会が催された。神田中隊長は杵を振り上げて上機嫌。少年たちも久しぶりに笑顔を見せている。そこへ八路軍から中隊長に呼び出しがかかった。武器隠匿の嫌疑だという。座は急に白けてしまった。

 それっきり神田中隊長は少年たちの前に戻ってこなかった。明けて46年の正月3日、燃料倉庫の中で中隊長の遺骸が発見された。こめかみを撃たれ多分即死だったろう。後で分かったことだが、義勇隊が起居していた宿舎の床下から重機関銃が見つかったという。敗戦時のどさくさに誰かが埋めたものに違いない。神田中隊長をはじめ義勇隊の誰もが知らないことであった。運が悪かったというしかない。

 八路軍は関東軍火工廠を東北兵工第七廠と名前を変えて、工場生産を再開する方針だった。しかし工場設備の殆どはソ連に持っていかれ、その上国府軍の北上で慌しく、じっくり工場再開を準備する時間などない。旧火工廠は国府軍の追撃を逃れて通過する八路軍部隊の中間宿営地の役目に過ぎなくなった。

 八路軍の組織の脆弱性も見えてきた。そうなると心配なのは旧日本軍の反乱である。国府軍と通じているかもしれない。反乱のために武器や資産を隠しているのではないか。疑心暗鬼が生じてくる。日本人社会への過酷な誅求が強まる。義勇隊神田中隊長の銃殺はその予兆であった。