戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(46) 18/02/08

明日へのうたより転載

 11月中旬のある日昼過ぎ、武井覚一は工事部事務所へ行った帰りに「おい」と声をかけられた。振り向くと吹野信平少佐が立っていた。少佐は左ひじを武井の右肩に置いて並んで歩きながら「さっきソ連の奴が来てね。捕虜を2000人出せと言うんだ」と話し始めた。「それは大変でしたね」と武井が応じた。

 「うん、大変であった。末廣とかいう元関東軍の陸軍大佐が案内人としてついてきた。ソ連兵は大佐と副官の2人、それに通訳がいた。通訳は半島人で、この通訳が我々に非常に好意的だったよ。逆に関東軍大佐の方は最悪だった。『どうしても捕虜を出せ』と強圧する。

 『こには兵隊はいない。一般民間人だ』
 『ここへ来る途中、軍服を着た一隊を見た』
 『あれは北から逃れてきた難民で、着るものがないので軍服を着ているのだ』
 『女々しいことを言うな。それほど捕虜になるのが嫌か』
 『女々しいことなど言ってない。おれも帝国軍人だ。今でもちゃんと襟章をつけている』 
 『とやかく言わないで早く集めろ』

 『部隊は解散して兵はいない。自分が集めようとしてもその権限はない。どうしても連れて行きたいなら貴官が集めればよかろう。しかしこのことだけは言っておく。8月25日のことだ。男子全員連行の指令に応じられないとして全員玉砕の寸前まで行った。今度も同じことが起こるかも知れない。その時は貴官が責任をとれるのか。その覚悟があるならやってみなさい』

 このやりとりを通訳がこちらに好意的にソ連側に伝えてくれたに違いない。ソ連軍大佐と副官は『ここは後回しにしてよそへ行きましょう』と言って引き揚げていった」。そう言って吹野信平はため息を吐いた。武井が後で聞いたところによると、火工廠での捕虜狩りに失敗した員数合わせに、遼陽と鞍山の軍病院から傷病兵が引っ張られている。武井は誠に済まない気持ちでいっぱいだった。

 8.25事件の舞台となった桜ヶ丘国民学校は、爆薬の撤去、損壊箇所の修繕などが行われた。しかし授業が再開されたのはソ連軍の支配が中国共産党に移管された11月下旬で、その間は休校状態だったようだ。国民学校高学年の生徒は学習塾形式で授業が確保されていたようだが、筆者のような低学年児童まで手が回らない。

 担任の鈴木久子先生も家族と一緒に生き延びるのがやっとの毎日。初秋になって校長先生から「なるべく男装をして学校へ来るように」と指示があり開校の準備をしたが、すぐにまた自宅待機になった。国民学校校舎は土足のソ連兵によって蹂躙されたままであった。