戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(44) 18/02/02

明日へのうたより転載

 加々路と松本は新京の大通りを捕虜収容所になっている元の消防署を目指して歩いた。遼陽、奉天などと違ってソ連軍将校の姿も多く、街中を装甲車が走っている。大通りの突き当たりに赤旗が翻り、火の見やぐらに見張りの兵士が見えた。捕虜収容所である。建物の周囲は鉄条網が張り巡らされている。脇の入り口に少年兵が1人で立っている。松本が得意のロシア語でかねて用意した来意を告げた。

 少年兵は2人が持っている南京袋の中身を改め、野菜であることを確認、すんなり通してくれた。建物内には元日本兵が忙しそうに歩きまわっている。その1人に「最高幹部に会いたい」と言ったところ「将官は既にチタ、ハバロスフクに連行された。ここには佐官しかいない」との返事。そして佐官が集まっている部屋に案内されたが、驚いたことに最高責任者は8月15日まで火工廠にいた関大佐だった。

 まことに奇遇。加々路はその後の火工廠の推移を報告した。将校はじめ軍属も1人の連行もなく全員無事だと伝えると「それは凄い。よく捕われなかった」とその場の佐官達にどよめきが起こった。この収容所は近いうちに閉鎖され、全員ハバロフスクへ送られるという。ハバロフスクから日本へ帰れればいいが、と希望がらみの冗談が出た。

 加々路は関大佐に、改まって火工廠の今後について指示を仰いだ。「敗戦後大本営から『部隊を解散して兵員は除隊させよ』との最終無電が来た。これが命令の最後だ。この命令を全満の部隊に伝達してほしい」。それはとうてい不可能に思えたが、加々路は命令の伝達を約束した。いたずらに収容所内の滞在が長引くと無事退出することでできなくなる恐れがあるので、日頃ソ連兵と折衝している関大佐の口利きでなんとか建物から外へ出た。後ろから発砲などされるのではないかとびくびくしながら大通りへ戻った。

 翌日は在満居留民会に高崎達之助会長(満業総裁)を訪ねた。途中北満からの避難民で溢れている白菊小学校に立ち寄る。女子どもだけの集団は飢餓、病気、暴行に苛まれ、聞きしにまさる地獄だ。これらの人たちの苦労に比べると、桜ヶ丘はなんて恵まれているのかと思わざるを得ない。

 民会事務所に高崎総裁の姿はなかったが、係員から自宅を教えてもらった。自宅ではちょうど出かけるところだったが、遼陽からわざわざ来たというので家の中に引き返し話を聞いてくれた。遼陽や奉天の様子、またここまで来る途中の沿線の模様をに熱心に耳を傾けた。高崎総裁は「在満日本人の安全確保に関して毎日ソ連軍司令部と交渉している。敗戦国ではあるが毅然たる態度が必要だ。当面百数十万の在満同胞をどうして越冬させるかに心を砕いている。食糧、石炭の確保は待ったなしだ」と決意で顔を紅潮させた。