戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(42) 18/01/26

明日へのうたより転載

 ソ連兵と起居を共にした佐野肇中尉の手記《唐戸屯に進駐した十数人のソ連兵の接待係を命じられた。当時私は24歳、吹野信平少佐の命に従ってただ黙々と任務をこなした。毎日ソ連の兵隊たちと行動し、ソ連下士官と同じ建物内で夜を過ごした。この間に私が感じたのは、ソ連という国は気に食わないが、兵隊たちは無邪気な若者だということ。ただし、金目のものと女性に対する欲求は強かった。

 毎晩少尉以下の幹部と会食して随分酒を飲んだ。ビール、ブド―酒、日本酒、ウオッカ、焼酎何でもござれ。縄で縛った山羊の首を軍刀でちょん切って料理したりした。ある時、隊長の現地妻の日本人女性との仲を疑われ、一晩中ピストルで脅かされたことがあった。疑いは晴れたが今思い出しても怖い体験だった》。

 ソ連軍士官の炊事を担当した先崎俊雄の手記《8月31日からソ連軍の食事づくりを民会執行部の殿岡氏から依頼された。「自分はロシア料理はつくったことはない」と言ったが、洋食をつくれるのはお前たけだと頭を下げられて引き受けた。

 献立はロシアスープ(野菜、豚肉、鶏丸煮)、ハンバーグ、ローストチキン、餃子などで、材料は工場に備蓄してあった綿布類を近くの満人部落へ持参し物々交換して調達した。料理の評判はよく、毎日過食したため腹を壊した兵隊もいたという。ある時ソ連部隊長の自室に呼ばれ、ビールを振る舞われた。「あなたの料理はとてもうまい」と通訳を通してほめてくれた》。

 東京陵でパンを焼いた小森進会計科員の手記《東京陵へは6人のソ連兵が来た。宿舎は以前豆腐職人の満人が泊まっていた汚い部屋だ。この兵隊たちの食事を任された。初めての日、砂糖をふんだんに使った上等なパンを焼いた。それを食卓に出したところ「ネ―ハラショ―」と突き返された。糖分は駄目らしい。そこで翌日は砂糖抜きのパンにした。彼らは上機嫌でむしゃむしゃ食った。

 酒保の倉庫にあったウィスキー、ビール等はひと月半で飲みほしてしまった。あとは日本酒しかない。日本式に熱燗にして出したらこれも「ネ―ハラショ―」。コップの冷酒は上機嫌で飲んだ。突っ返された燗酒は私たち調理人があり難く頂戴した。

 ある日ソ連軍将校が「馬車を用意しろ」と命じるので、近くの部落で馬車を御者ごと借りてきた。彼らは倉庫にあった地下足袋を馬車に山のように積んで満人部落へ。そこで野菜、豚肉、アヒル等と物々交換して戻ってきた。本来の持ち主である日本人には何の断りもない。敗戦国日本の無力さ加減をいやというほど知らされた》。