戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(40) 18/01/24

明日へのうたより転載

 9月に入ると関東軍としての部隊編成が解かれ、民営の自治組織づくりが本格的した。それが日本人居留民会桜ケ丘支部となる(支部長・吹野信平、副支部長・浜本宗三)。支部運営は東京陵地区と唐戸屯地区に分かれ、それぞれに町会長を置いた。火工廠も民営の南満工廠と名前を変えて支部の管轄になった。

 南満工廠は工廠長の下に業務系統に応じて実力者を配置した。総務部長・鈴木弓俊、総務部補給課長・福田正雄、総務部教育課長・伊藤礼三、事業部長・川原鳳策、業務部長・馬場純一郎、動力担当・鴨沢弘、倉庫科長・加藤治久、第一工場長・得能典通、第二工場長・保坂秀夫の各氏である。

 ソ連軍は工場内の設備解体・搬出に日本人を使用したのに賃金を払わない。1万人近い居留民が食べていくのは至難の業だ。支部は工場に備蓄してあった小麦粉や高粱、粟などの雑穀を引き渡すよう交渉して当面飢えを凌いだ。同時に男は全員近隣の農家や工場に働きに出て賃金を稼ぐ。それをプールして必要に応じて分配した。「1人の犠牲者も出さずに生き延びよう」というのが方針の基本だった。

 支部が最も気を使ったのが近隣の現地農民との関係であった。8・25事件に際しては略奪、襲撃などがあり、居留民はさらなる危害を恐れたが幸い大事には至らなかった。いずれにしても以前のような支配者面はできない。対等の関係をこちらも自覚し、相手にもそのように接してもらわなければならない。、

 朴家溝で農場管理をしていた西村秀夫氏の手記によれば《近隣の満人農民たちとの関係も終始平和的であり友好的であった。大日本帝国の支配があった時代とは異なった親しさが生まれた。・・・・満服を着た私が凌陽への道を歩いていると、馬車で通りかかった農民が「西村さんどこへ行くんだ」と聞いて「乗ってゆきなさい」と勧めてくれたことが度々あった》と言うが、それは稀な例だったのではないか。当時8歳の私は母親に「満人は怖いから絶対に官舎敷地から出るな」と言われた記憶が残っている。

 満州の冬は厳しい。昨冬までは工場から配管されているスチーム暖房で、外が零下20度でも家の中は春のような暖かさだった。今年はどうなる。支部はソ連軍と折衝してひと冬越せるだけの石炭の確保に成功した。その石炭をボイラー室及び町内単位の貯蔵所までトロッコで運んだ。大変な労働だったが、この早めの対処が凍死を防ぎ居留民の命を守ったことになる。

 居留民にとって今満州はどうなっているのか、これからどうなるのか。情報がないのが一層不安をかきたてる。青年たちの間では「近い将来米ソ戦が始まる。強い方につけば日本は優位に立てる。それまで山中に入り馬賊になって時期到来を待とう」といったようなデマが飛び交った。支部はそれらのデマを防ぐため、新聞班をつくり、ガリ版刷りの「白塔新聞」を発行。「白塔新聞」は1946年2月まで発行され、町内会を通じて各家庭に配られた。