戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(39) 18/01/18

明日へのうたより転載

 柳中尉は翌26日1日中、東京陵の工場と官舎を守るための防衛柵設置工事の指揮にあたっている。夜は浜本大尉宅で今後の火工廠のあり方について意見を交わした。防衛柵工事は27日も続けられ、柳は引き続き作業に従事する。夕方東亜寮内の白塔クラブに有志が集まり、浜本大尉を中心に会議を持った。明日開かれる林部隊長召集の火工廠の将来方針を討議する会議への対策を練るためだ。

 会議では浜本大尉が提案した将来方針の基本理念をたたき台にして議論され、大方の同意、意思統一ができた。この議論の中で柳中尉は林部隊長に対する批判的意見を吐いたものと思われるが、「関東軍火工廠史」にはその内容は記されていない。会議は午後10時頃終了したが、柳その他3,4人はさらに深夜2時頃まで話し合った様子である。その後柳は徹夜で行われていた防衛柵づくりを視察し2時間ほど仮眠した。

 28日6時半頃起床すると柳は鈴木弓俊中佐の部屋を訪れ、「これからの日本を救う道は、科学の新生面を開くしかないなあ」としみじみした口調で述懐した。鈴木中佐は押入れの布団の下から拳銃を取り出した。関東軍総司令部に出向していた柳から預かっていたものである。鈴木が開け放された窓から外の電柱に向かって1発発射。柳は驚いて「露助を刺激しては大変だ」と鈴木を宥め拳銃を引き取った。

 柳中尉のその後の足取りは既に記したように、稲月中尉の部屋をふらりと訪れ、何ということもない話をしてまたふらりと出る。午後は浜本大尉宅へ回ったが大尉は留守。夫人に挨拶してどこかへ姿を消す。そして夕方、吉野神社の裏でピストル自殺している。

 柳中尉の自決は覚悟のものだったか、あるいは衝動的な行為だったか。両方が絡んで複合的に動機が形成されたというのが筆者の見方だ。もちろん、ソ連参戦以来の身辺の激変、特に8月25日の異常な体験が若い心を激しく揺さぶったことは間違いない。それが覚悟の自殺へとつながったことは十分考えられる。

 しかしそれらの身辺の激変は自決の背景としてはあったとしても直接の動機ではないのではなかろうか。柳中尉は、火工廠の将来だけでなく敗戦日本の今後にも思いを馳せている。これからは科学を大切にしなければならないときちんと日本の将来像を描いている。それを誰かと共有したかった。それで浜本大尉宅を訪れたが留守だった。一気に絶望の念に捕われたのではないか。その時ちょうど拳銃が手元にあった。それが衝動的に自殺へと走らせたのではないか。いずれにしても「戦争の犠牲者」であったことは間違いない。