戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(34) 18/01/07

明日へのうたより転載

 第二は広場に集まった群衆がソ連軍による「男子全員集結命令」を何故「シベリア連行」と受け止めたのかということ。ソ連参戦から半月、日本敗戦から10日しか経っていない。男子全員集結がソ連軍の捕虜になることは分かっていたとしても行き先がシベリアとまでは明らかでなかったはずだ。集結命令には「防寒具用意」とあるからそれでシベリアを想起したということはあるだろうが、果たしてそれだけか。

 父の同僚小林隆助は「すぐ帰ってくるから」と長女延子に言っている。小林が広場に出かける時点ではシベリア行きは念頭になかった。知っていたのは将校や火工廠幹部である。つまり住民間で情報の格差があったことになる。雇員クラスの下っ端従業員は広場に来てから初めてシベリア連行を知り、それに猛反発して日頃偉そうにしている部隊長や将校への批判になったと思われる。

 将校や火工廠幹部はどうしてシベリア連行を事前に知っていたのか。一つは関東軍総司令部からの情報だが、ソ連参戦以来連絡は途絶したままだ。関東軍を通じた情報伝達は可能性が薄い。

 ここで考えられるのはラジオによる情報である。満州のラジオ放送は国策会社「満州電力電信」(満州電電・MTCY)が握っていた。満州電電は本土の日本放送協会(NHK)と一心同体だ(森繁久弥はNHKに入社してすぐ満州電電にアナウンサーとして配置されている)。その満州電電だが、ポツダム宣言受諾の玉音放送をしたことははっきりしているが、その後はどうなったのか。

 満州電電の本社は新京にあって新京中央放送局を運営していた。その新京中央放送局が中国共産党の八路軍によって接収されたのが1945年9月10日である。つまり8月25日時点では日本が放送権を握っていたことになる。その時はもうソ連軍が新京に進駐していたのだからとれほど自由な放送が保障されていたのか分からないが、日本語による公的な情報伝達の唯一の手段であったことは間違いない。

 もちろんラジオ放送は受信機がなければ聴取できない。その受信機が高額だったことと当局による聴取許可の手続きが厳格だったこともあって一般の家庭ではラジオは無縁だった。東京陵で言えば火工廠事務所、学校、病院、消防署などの公的機関、自宅でラジオを備えられたのは一部幹部、将校のみだった。

 男子全員集結をシベリア連行と結びつけたのはラジオによる情報だったのではないか。