戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(27) 17/12/22

明日へのうたより転載

 庶務科自動車班の窪内運転手は、救急車を勝手に引き出して東京陵からの脱出を図ったが山道で車が故障。思案に窮して青酸カリで自殺した。同じく自動車班で経理係をしていた村上係員は、妻子を残して消防車で朝鮮方面へ逃げてしまった。東京陵に残された妻は2歳の子どもを柱に縛り付けて家に火を放ち、自らは青酸カリ自殺を遂げた。

 火工廠第二工場(唐戸屯)では、指揮官の吹野信平少佐が国民学校へ行ってしまったので工場長の加藤治久大尉が指揮を執っていた。加藤大尉はソ連軍の命令に従って海城へ集結することを視野に入れて部隊を解散させずに待機させた。12時過ぎ、松風塾の加々見仁塾長からの電話があり、玉砕中止、部隊は解散せよとの指示。加藤大尉は指示に従って集結していた部隊を解散した。

 唐戸屯部隊本部前には爆砕から逃れてきた東京陵の住民が数百人集まっていた。これらの人たちに事情を説明、とりあえず松風塾の2階大広間を宿舎に指定した。女子どもがほとんどだ。支給した毛布にくるまって安堵の表情を取り戻す。それを見て加藤大尉は自らも疲れのため倒れるようにして朝まで寝た。

 今生の別れに酒を酌み交わして防空壕で寝入ってしまった庶務科の田中弥一雇員一家と同居の挺身隊員は、騒がしい人の声で目が醒めた。満人かソ連兵かも知れない。耳で確かめるとどうやら日本語だ。ほっとて防空壕に入り口を開けると明るい朝日が飛びこんできた。

 同じく家庭用防空壕に退避した研究所技手の山崎藤三永は、壕の中でマッチを擦って腕時計を見た。爆発予定の12時を過ぎている。恐るおそる壕を出たところへ伝令が走ってきた。「玉砕は取り止めになった。近所の火を消せ」。すぐさま町会の何人かと協力して消火にあたった。ここが済めばあちらと夢中で飛びまわる。大方の火事が消えほっとしたら東の空が白みはじめていた。腹も空いたので家に帰る。壕から出た家族が「ご苦労さん」と出迎えてくれた。

 東京陵山崎町官舎の渡辺秀夫は近所の数家族と相談、知り合いの満人を頼って朴家溝へ避難した。満人の家で落ち着かぬ時を過ごしていたが、明け方、玉砕中止の情報が入る。すぐ帰ることに。世話になった満人が馬車を出しくれた。26日朝9時頃山崎町へ。そこには悲惨な光景が待っていた。

 開け放しの隣家の玄関を覗くと、あるじ夫妻が白装束で正座している。早まって子どもたちに青酸カリを飲ませてしまったので後を追うという。渡辺は「何としても祖国の土を踏むことが子どもさんへの最大の供養ではありませんか」と必死に説得して死ぬのを思いとどまらせた。