戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(17) 17/11/25

明日へのうたより転載

 夜の9時を過ぎると、遠くから近くから町会毎に鳴らす鐘の音が聞こえてきた。死を誘う陰気な響きだ。武井技手は再び通りへ出た。日頃懇意にしている吉井技手宅を訪ねる。夫人が寄宿していた2人の挺身隊員に別れを告げているところだった。「ご主人はいますか」と言うとすぐ吉井技手が顔を出した。武井が「貴殿はどうする」と聞くと、「僕はこのままで人生を終わりたくない。この吉井という男をもう一度世の中に具現したいので、太子河を越えて逃げる」と言う。「娘さんはどうする」「もう大人だから自由にさせる」。吉井技手はわずかな荷物を持って夫人と2人で弥生町を去っていった。

 武井技手はその足で東京陵病院に柏樹医務局員を訪ねた。病院の中庭の芝生に軍医の岡野大尉が軍刀を杖に腰を下ろしている。「岡野さん、あなたも死ぬのですか」と問うと「俺も軍人の端くれだ。林閣下のお供をする」と答える。武井技手は「岡野さん、もう戦争は終わったんですよ。この非衛生的な満州で満人を病気や怪我から救えるのはあなたたちお医者さんだけではないですか。満人のためにも生き残ってください」と励ましたが「やはり僕は閣下のお供をするよ」と意思を変えない。そこへ柏樹医局員と看護婦が出てきて岡野軍医の手を取って立ち上がらせた。3人は一緒に国民学校へ向かうらしい。

 次は浜本宗三大尉の家だ。玄関の硝子戸を叩くと、喪服姿の大尉が現れた。「浜本さんも死にに行くんですか」と聞くと「もうこんなしち面倒臭い世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と取り付く島もない。武井は回れ右をして自宅へ帰ることにした。

 家の玄関を入ると電話が鳴っている。国民学校にいる政井中尉からだ。「あなたの弥生町だけがまだ誰も来ない。早く半鐘を叩いてください」と命令口調。「私は鐘は叩きません。皆さん死にに行ってくださいというような鐘は叩けません」と強気に断る。「そんなこと言わずに叩け」「叩きません」と押し問答の末政井中尉は「それなら宮川大尉に叩くよう伝えてほしい」と折れてきたが、武井はそれも拒否した。

 武井の留守中に工事部旋盤班の菊池班長が来たそうだ。武井の妻に「私のところは年寄りもいるので逃げることもできません。これから一家で国民学校へ参ります。長い間武井様には大変お世話になりました。よろしくお伝えください」と挨拶し、鉢巻き白装束姿で去っていったという。武井は、死を前にしていろんな人がいろんな選択をしていることに改めて思いを馳せる。さて俺はどうしようと考え込んてじまった。