戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(15) 17/11/16

明日へのうたより転載

 朝日町に住む庶務科の田中弥一雇員宅には奉天高女の勤労学徒が2人寄宿していた。田中は玉砕の報を聞いた後彼女らに「どうするか」と尋ねた。「私たちも行動を共にします」との返事。「自分たち一家は防空壕で待避することにしている。状況次第では青酸カリを飲んで自決する覚悟だ」と言うと2人とも頷いた。長期退避に備えて食料品、衣類を壕内に持ち込む。壕に入る前、今生の別れになるやも知れず、皆で別れの杯を交わした。酒に弱い者ばかりだったので、壕に入ると熟睡してしまった。

 町内の住民の中には爆砕を逃れるため吉野山を越えて避難する家族もあり、出がけに火をつけたのかあちこちで赤い炎が上がっている。東京陵に夜が訪れつつあった。

 武井覚一技手はロータリーの集まりが流れ解散になったので弥生町の官舎に戻った。弥生町は軍属の判任官が住む。町会から「今後の相談をするのでテニスコートに集まるように」という伝達。武井技手が出向くと既に議論が沸騰していた。ある者は死ぬと言い、ある者は逃げると言う。

 武井は議論を制して静かに自説を説いた。「皆さん死に急ぐことはない。ソ連軍といえども鬼でもなければ畜生でもあるまい。我々は今日まで五族協和、大東亜共栄圏の拠点としてこの関東軍火工廠を建設してきた。1棟の家、1本の電柱、1枚の瓦、1本の道路、皆我々が精魂込めて造ったものだ。もしソ連軍が無理無体なことをしたら、その時こそこの町を灰燼にしてしまおう。大人しく交渉に応じ我々の意見も聞くようならきれいな町のまま引き渡そうではないか」。

 しかし議論の一本化は難しい。結局皆それぞれ思った道を行くしかない。武井技手は重い心で家に戻った。玄関で出迎えた義母が「私は這ってでも内地へ帰るよ。こんな満州なんかで死ぬのは嫌だよ」とすがるように訴える。武井は言葉もなく道路へ出て、将校官舎の方角に足を向けた。

 人の行き交う道端で顔見知りの宮城少尉から「武井さん、如何しますか」と声をかけられた。「様子を見ます」と答えると「そうですか。国民学校もろとも爆砕したら大変なことになりますよ。周辺の満人が押し寄せてきて略奪が始まります。だから今、川原少尉たちがなんとかならないかと工作しています。もう少し様子を見ましょう。場合によっては大連へ脱出して内地へ帰れるかも知れません」と元気づけてくれた。