戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(4) 17/10/15

明日へのうたより転載

 関東軍火工廠は全国の造兵廠から転勤者を募った。王子陸軍造兵廠でも募集が行われ、父はそれに応募した。30代半ばで中国大陸へ海を渡るのはそれなりの決断を要したはずだが、多分給料や住宅などの待遇がよかったからだと思われる。1940年に単身で赴任し、その年の12月に二女栄子が生まれるのを待って家族を呼び寄せた。42年に三女悦子が生まれ、45年8月時点で母は3ヵ月の身重だった。

 吉林の満州電化に硝酸工場を建設するため出張していた井上富由技手は、8月9日払暁、部屋の窓が急に明るくなったのに驚いて飛び起きた。とりあえず硝酸工場の建設現場に急ぐ。空から照明弾が落とされているようだ。時折爆発音も聞こえる。アメリカのB29かと思った。照明弾は落下傘に吊り下げられていた。その落下傘が近くに落ち、拾うと粗末な木綿生地にロシア語が。ソ連の空爆だと分かった。

 翌10日、出張目的を終えて遼陽へ帰るため、最寄りの龍胆山という無人駅へ行った。10時頃、定刻遅れの列車がきたので、とりあえず新京へ向かう。途中吉林市内を窓から見たが、爆撃の被害は分からなかった。新京に着いたが、駅員の話ではすべての列車が停まったままで運行の目途は立たないという。仕方がないので、駅を出て関東軍総司令部で様子を聞くことにした。

 しかしどの部屋にも人影はない。たまたま兵器部の部屋を覗くと、火工廠から出向いたきたという柳尚雄中尉がいた。情勢を聞いてみると「戦況はすこぶる悪い。ソ連軍が今日、明日中にも新京に到着するかも知れない。総司令部は昨日通化に向けて出発した。鉄道は全面停止だが、本日10時に軍人、軍属の家族を避難させる列車が動くかも知れない」と的確に答えてくれた。

 この時柳中尉は「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と井上技手に言った。柳中尉は独身で寮住まいだった。井上技手は火工廠に戻ってからも拳銃の件を忘れていた。後にこの拳銃が悲劇を生むことになる。

 司令部を出ると通りは家財を積んだ荷車や馬車で混乱していた。とにかく駅まで歩き、列車の動くのを待つことにする。9時頃、ホームを外れた線路に有蓋貨車が停まった。老人と女子どもを中心にした日本人の集団がが乗っていた。井上技手は無理を言って割りこませてもらう。列車は真っ暗な中をのろのろ走りだした。