水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)6.19怒りの沖縄県民大会⑥止 16/07/10

「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/

 ガマから外へ出ると、太陽の光にほっとする。ヒトは光がなければ生きていけないのだ、と、奇妙なことを考えていた。3日間で遺棄現場、辺野古新基地建設現場、普天間基地の調査、県民大会参加、ひめゆりの塔、平和祈念公園、糸数アブチラガマなど戦争の爪痕や沖縄県民のみなさんの心に触れた。改めて戦争を許してはいけない、という思いを強くした。

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  冒頭部分で述べたが、私は長年、沖縄を訪ねることをためらっていた。50年を超えるつきあいの沖縄出身の友人がいる。その友人から「沖縄に行こう」と何回も誘われたことがあるが、断ってきた。沖縄が虐げられてきたその原因を取り除くために、自分が何も出来ていないという申し訳なさがあったからだ。

 1995年に起きた少女暴行事件のときは、何とかしなければならないという思いから、意見広告運動に取り組んだ。千代田区労協を拠点にカンパ活動を展開、琉球新報に1ページの全面広告を成功させた。イラストを絵本作家の田島征三さんに依頼した。拳を振り上げた力強いイラストが出来上がった。

 このときも、私は沖縄に行くことをためらった。

 オール沖縄の当面の目標は、「海兵隊の撤退」である。これはこれで私は支持する。が、本質的には日米安保条約による被害であり、これを廃棄することこそが真の解決策であると断言できる。私は〝安保廃棄論者〟である。政治的、経済的、軍事的、文化的にもアメリカに従属させられる日米安保条約は、片務契約にほかならず廃棄すべき対象だと思うからだ。

 安保廃棄のスローガンは遠景に追いやられ、運動もままならない状況下で沖縄を訪ねることに罪悪感のような澱が私の中にあった。沖縄に行こうと思った動機は、カミさんに押されたからである。毎年、2、3回ほど夫婦旅行をしているが、カミさんは復帰前の沖縄にパスポート持参で行ったことはあるが、復帰後はないという。私は47都道府県のうち行ったことがないのは沖縄だけになっていた。時はすでに21世紀に入っていた。

 背中を押されて初めて沖縄を訪ねた。現在の美ら海水族館が開館した2002年11月のことである。美ら海水族館や首里城などの観光地だけでなく、今回行ったひめゆりの塔なども回った。戦争の傷跡は小さくない動揺を私の中に起こしていた。

 二度目の訪問は定年を前にした2007年4月だ。このとき私は47都道府県の最高峰すべてを踏むという課題があり、沖縄だけが残っていた。沖縄県の最高峰は石垣島の於茂登岳(おもとだけ 標高525.5メートル)である。早朝、於茂登岳に登ってホテルに帰ってきたら、右足のふくらはぎにヒルがまとわりついており、驚いたことを覚えている。このときは西表島や水牛車に引かれて由布島、竹富島にも行った。

 1995年に起きた少女暴行事件を契機に、普天間基地撤去・返還運動が高まり日本政府は「移転」を検討せざるをえなくなった。当初は移転先として「海外」無理なら「沖縄県外」の動きもあったが、米軍の要望もあり辺野古への新基地づくりが始まった。この動きをきっかけに私の〝沖縄闘争〟への参加が本格的になった。

 紙数の関係もあり詳細は難しいが、「沖縄闘争」に関する私の偽らざる思いを述べさせていただいた。19日の県民大会で、本土の人たちは「第二の加害者」であると批判してくれた、玉城愛さんの腹の底から絞り出すような訴えに、耳を傾けなければならないと考えている。

★脈絡のないきょうの一行
参議院選挙結果、改憲勢力が3分の2へ。憲法守る闘いは厳しくなるが、それでも後には引かない。

 

 

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