水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)釈然としない、栃木女児殺害事件判決④止 16/04/14

「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/

  人間には弱さがつきまとう。あの強靭と言われた村上国治さんでさえ、揺らいだことがあったという。ましてや一般市民の容疑者が捜査側に問い詰められて、ウソの自白をしてしまうことはあり得ることなのだ。私たちはこの事実を銘記しておかなければならない。だからこそ、刑事裁判において物証が重視されるのである。いや、物証に基づいた厳格な判断が求められるのである。

 今回の事件の場合、公判過程で取り調べ中のビデオが公開された。公開されたそれはすべてではなく、ほんの一部に過ぎないという。テレビに映し出されたそれは、(少なくとも私が知るかぎりでは)被疑者が犯罪を認めた部分だけであった。

 取り調べの可視化がよく言われるが、公開されたのは捜査側に〝有利〟な部分だけだったのではないか。無実を主張したはずの被告が、犯罪行為を否定した部分が出てきていないからだ。一部を公開し、「可視化した」ことを裏付けるための単なる〝アリバイ〟だったのではないかと思いたくなる。

 裁判員制度にもとづいておこなわれた今回のこの裁判も、裁判員の意見が判決に反映した。担当した裁判員は、前述したとおり「ビデオを見て有罪を確信した」と言っている。物証がない、あるいは乏しい事件の場合、自白だけが決め手になる恐れが多いことは知られているとおりだ。

 事実、裁判員の一人は「評議時間の短さへの指摘も多く、女性看護師は『(読み込む調書の量など)情報量があまりにも膨大で、どう処理していいか分からなかった。振り返る時間がほしかった』と注文をつけた。」(4月8日・毎日新聞ウェブ)と発言しているように、時間も制約された中で、物証のない事件への判断は難しいものがあることは想像に難くない。

 裁判員も人の子だ。判断を間違えることもあるだろう。だがこの種の刑事事件は、判断を誤ると大変なことを引き起こす。それが死刑や無期懲役など極刑の場合、「推定無罪」の被告の人生を閉ざしてしまう取り返しのつかない誤謬(ごびゅう)となる。判断の誤りは許されないのである。

 私はそういう問題もあり、裁判員裁判について疑問を唱えた一人である。小ブログの2009年5月11日から27日にかけ12回にわたってこの問題について触れた。そのとき私は「捜査当局は裁判員裁判という形をとって、国民に冤罪の片棒をかつがせるのではないか」と懸念したが、今回の判決はそれが的中したような気がしてならない。

 栃木県警と宇都宮地検は、「足利事件」(1990年5月に栃木県足利市で女児が行方不明となり、渡良瀬川で遺体となって発見された事件。容疑者として菅家利和さんが逮捕・起訴され有罪となり服役。その後DNA鑑定で再審によって無罪となった)で、冤罪を作った〝前科〟を持っている。この事件と同じことを繰り返しているのではないか、疑問は膨らむばかりだ。

★脈絡のないきょうの一行
日本の最も所得の低い層の所得は中程度の所得層の4割で、一般的な子育て世帯の所得の半分にも満たない(国連児童基金報告書)。格差は広がるばかりだ。


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