水久保文明(JCJ会員 元毎日新聞労組書記 千代田区労協事務局次長)障害児たちの疎開 10/08/21

 

「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/

 8月に入ると、ヒロシマ・ナガサキを題材にした核廃絶の報道と、終戦記念日に関連して戦争と平和に関する報道が目につきます。新聞もテレビも、週刊誌もさまざまな角度から企画を打ち出しました。それらの全てに目を通すことは物理的に不可能で、今年、目に留まった二つの記事を考えてみることにしました。

 一つは8月10日から13日まで、毎日新聞の生活・家庭面に連載された「もう一つの学童疎開――光明学校の障害児たち」がそれです。木村葉子記者の執筆で、たんねんな取材で構成されています。

 何故この記事が気になったかといいますと、戦争は弱者ほど被害が大きくなるという特質を持っています。あの戦争のとき、多くの女性や子どもたちが犠牲になったことは知られていますが、障害者や障害児はどんな扱いをされていたのかあまり知られていません。木村葉子記者はそこにスポットを当ててくれたのです。その内容を紹介しながら、以下、考えてみたいと思います。

 学童疎開は、1944年6月から始まっていますが、この特集で最初にドキッとしたのは、「44年6月以降、政府は大都市の集団学童疎開を進めた。そこには次世代の戦力を確保しようとの狙いもあった」という記述でした。まさにそのとおりだと思います。当時の政府の学童疎開政策は、子どものいのちを守ることより次世代の戦力確保が目的だったのです。読み落としそうな一行ですが、光っていました。

 特集は、肢体不自由児の学校として設立された、東京都立光明(こうめい)特別支援学校(旧・光明学校、世田谷区)の疎開を追っています。一般の学童たちは44年6月から疎開をはじめましたが、この学校では1945年の「3.10東京大空襲」のあとの5月から始まったといいます。しかも、当時の校長が自ら疎開先を捜し歩いて長野県の上山田温泉に落ち着いたのです。行政は事実上、障害児を見捨てたのです。そうはさせないと、校長が自ら動いたのです。その愛情と努力に頭が下がるだけです。

 疎開したのは約60人。上山田では当時の村長がホテルを経営(上山田ホテル)しており、そこを開放してくれたといいます。しかも、戦後になって4年間も。戦争が終わると健常の子どもたちは疎開先からすぐに自宅にもどりましたが、障害児たちは4年間も〝置き去り〟にされたのです。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
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 疎開先の生活は、食べるものもなく厳しいものでした。教師と、付き添いの保母さんたちが子どもたちを支えました。その献身ぶりは、村人に「光明の保母さんたちを見習え」とまで言われるようになったといいます。障害をかかえた人たちを支えるには、多くの努力と時間と献身を必要とします。

 そのことが理解されたのでしょう、「婦人会や青年団を中心に、食糧を持って光明の子どもたちを慰問する活動が起こり、広がっていきました。学校から感謝状を贈られた団体もありましたが、記録に名前の残っていない多くの人が支え見守っていたようです」(当時の状況を知る温泉資料館館長・滝沢公男さん)という証言もあります。苦しい中で人々は支えあっていたのです。

 子どもたちもその生活の中で、確実に成長していきます。当時の在校生だった今西美奈子さん(75歳・大阪在住)は母親が面会にきたとき、「連れて帰って」と泣き叫んだといいます。しかし疎開先の小さな子らの面倒を見ることを教えられ、「自分が泣いてはいけない」と思ったと語ります。教師や保母さんたちの教えのなかから学びながら、子どもたちは成長していきました。

 当時の学童の1人、永田陽子さん(70)は、次のような詩を残しています。

ガッコウ 学校とは/こんなところだろうか/はだか電球の下に
立てない人が這っている/廊下ははりつくように/冷たい
ちがう ちがう/母の胸にしがみついて泣いた
母の涙は 私の頬に/私の涙は 母の着物にしみ
モンペのひざに落ちる/はなれまいとかじりつき
いっときも母の手を/はなさなかった
廊下をころげ/床に頭をぶつけて/百回さけんでも
母は戻ってこない/バスは動き出してしまった
初めてみる先生という人々/この世に
夜のあることを知り/まっくらになってしまうのも知った

(次回につづく)

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 光明学校は戦争が終わって4年後の49年4月に同じ世田谷区に再建され、集団疎開に終止符が打たれました。学校の再建に4年もかかったのです。恐らく、障害児の学校だから(再建は)後回しでもいい、という考えがあったのではないでしょうか。

 子どもたちの生活拠点となった上山田ホテルも営業再開に乗り出しましたが、すぐにはできなかったといいます。子どもたちの金具の装備や松葉杖で、大広間や客室は損傷していたからです。それでも、ホテルを開放してくれた当時の主人・若林正春さん(故人)は何も言わなかったといいます。ここにも子どもたちを支えきった、すごい人がいたのです。

 この経験について職員がつづったものが、戦後25年が過ぎたころ再建された光明学校の職員室の戸棚の奥から発見されました。「学寮通信」と題したガリ版刷りの通信でした。子どもの様子を離れて暮らす親に知らせようとしてつくられたもののようです。そこには子どもたちのくらしぶりと同時に、教師たちの思いも書かれています。

 この「学寮通信」を発見した光明学校の教諭だった松本昌介さんは、この障害児学童疎開をあちこちで語ってきました。そのなかで「なぜ、4年間も疎開しなければならなかったのか」という質問を受け、回答に窮し、10年をかけて上山田温泉をはじめ(元障害児らに会うため)全国を歩いたといいます。

 その活動は戦後生まれの教師らの共感を呼び、運動は今でも息づいています。光明学校は08年4月に「光明特別支援学校」と名前を変え、今は難病の子も在籍しているといいます。木村葉子記者はこの特集の最後を「過酷な時代に子どもたちのいのちを守り、自立へと導いた大人たちがいたことは、春が来るたびに、新任の教師たちに語り継がれている」と結び、過去の悲惨さだけに目を奪われず、未来に向き合う大切さを強調しています。

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