水久保文明(JCJ会員 元毎日新聞労組書記 千代田区労協事務局次長)母のぬくもり(旅立つ) 10/04/17
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「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/
息を引き取る――。この言葉の奥深さ、優しさ、切なさをこれほど実感したことはかつてありませんでした。そして、日本人の表現力の豊かさに改めて感服しました。
昨13日午後9時50分、母は、深呼吸をしたのではないかと思ったとたん、静かに息を引き取りました。その様は「息を引き取る」という表現にふさわしい、眠るような安らかさでした。享年89歳、人が彼岸に旅立つときは、こんなにもあっけないものかと不可思議の世界に迷い込んだような錯覚もありました。しかし母は、間違いなく息を引き取りました。大正、昭和、平成と3つの時代を生き抜いた女がひとり、黄泉の世界へ旅立ちました。
13日の午後、入院中の病院から「容態が急変した」という連絡が入りました。胃ろうの手術後、そこから〝食事〟を補給していた母は、昼食後にその食事の一部をもどしました。その際、それが誤嚥と同じ状態で肺に逆流し肺炎を起こしたようです。もともと肺機能が弱っていた母の身体には大きなダメージだったのでしょう、急激なドロップダウンを引き起こしました。死亡診断書の「死因」欄には肺炎、そのなかの「疾病経過に及ぼした病名等」には肺気腫と記されています。
連絡を受けた私は、病院へ急ぎました。先に病院に着いて様子を見ていたカミさんは、私の到着を待ちわびていました。担当医から病状を聞いて状況を把握、とりあえず職場にもどって仲間たちに連絡を取り、改めて病院へUターン。病室には、付き添い用の簡易ベッドが搬入されていました。ただ見守るだけしかできないことに、隔靴掻痒感は募るばかりです。茨城県つくば市から妹が子ども(母にとっては孫)の車に乗せてもらい、到着しました。
様子に変化はなく、妹たちには翌日の仕事もあることから帰ってもらい、カミさんには翌朝に再度来てもらうことにして引き上げさせました。私一人になって、仮眠態勢に入ろうとしたとたん、母の呼吸回数が少なくなりました。もしやと思い、母とパイプでつながれた計測器に集中します。その器械には心拍数、血圧、体内酸素濃度、呼吸数の数字が並んでいます。血圧は15分おきくらいでしょうか、自動的に計測しています。
計測器は最初に酸素濃度を示す数値がゼロになりました。間もなく呼吸数もゼロ表示となりました。その段階で間隔が長くなっていましたが、母はまだ呼吸をしていました。心拍数も表示されています。最新の情報を示す血圧は48-30と高い方が50を切る数値を示しています。とはいえそれは、計測器が冷厳に人のいのちの「終焉」を知らせていることにほかなりません。看護室のモニターで監視していたのでしょう、事態を察知した医者と看護師さんがかけつけてくれました。
母は深呼吸したのではないかと思うほど、大きな呼吸を一つしました。そのあと、静かに永久(とわ)の眠りに入りました。私の腕時計は午後9時50分を刻んでいました。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
母の葬儀は、身内だけで行うことにしました。前から決めていたことで、ご理解ください。
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聴診器で心音を確認したしたあと、医者は「残念ですが…」といいながら看護師に血圧計を身体から外すよう指示します。そのあと順次、酸素吸入器など、母の身体に取り付けられた管がはずされていきました。全ての管がなくなると、母はスリムになり楽になったように見えます。私は「よくがんばったね」と母に声をかけ、医者と看護師さんに深く頭を下げるだけでした。
あまりの急展開に少々うろたえながらケイタイを持たない人の私は、病院の廊下に設置された公衆電話からまずカミさんへ連絡です。自宅に帰り着いたばかりの彼女も驚きです。兄弟にそれを知らせてくれるよう頼んで、電話を切りました。病室に戻る途中担当医から呼び止められ、「死亡確認をしたい」といいます。
初めて知ったことですが、死亡確認は家族立会いを原則にするといいます。医師、看護師、そして私の3人で改めて時間を確認しました。「ただいま午後9時57分、確認します」という医者の事務的な声に、私はうなずくだけでした。母が息を引き取ったのは私の時計では9時50分でしたが、私が自宅に電話したりするためのロスタイムがあり57分が確認時間となりました。
次の作業の手順を聞くと、遺体の体をきれいに拭いて新しい衣類(持参のパジャマ)に着替えさせたあと、病院と契約している葬儀業者が来るといいます。葬儀業者は家族が指定できる、と言いますがあてはなくそこに依頼することにします。身体を拭いてもらっている間、面会室で待ちます。その間、連絡の必要事項を確認するため、改めて自宅に電話を入れて車で来てくれるよう、頼みました。
「準備ができました」という声がかかり病室に戻ると、母と二人だけの時間が過ぎていきます。化粧も施してくれたのでしょう、頬のあたりが薄いピンクになっています。声こそ出せませんでしたが、つい先ほどまで呼吸をして脈もあり、生きていた母が無言の人になったことに言葉にならない違和感が走ります。白く長くなった髪の毛を、撫でてやります。「よくがんばったね。もうゆっくり眠っていいよ」とつぶやきながら。しばらくすると、黒い服を着た葬儀社の人がやってきました。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
政府税調で消費税増税問題が浮上。3党合意・民主党マニフェストを凌駕して。これ何!?
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葬儀社の人、この人たちこそ「送り人(おくりびと)」です。丁寧なあいさつをいただいたあと、これからの手順の説明が行われました。この瞬間から、母の身体は「病院=医師」から、「葬儀社=送り人」にゆだねられます。
告別式までの間、遺体をどこに安置するつもりか。葬儀はどこ(の地域)で行うのか。宗派はどこか--など細かい質問を受けます。その質問は、事務的ですがソフトです。おおむね話しが終わると「寝台車を手配しましたのでまもなく到着すると思います。それまで病院の霊安室でお待ちいただきます」と案内されました。
母の身体は、病院の地下にある霊安室に移動しました。入院時に持ち込んだ私物は整理され、ワゴンにまとめて載せられておりそれも一緒に運びます。霊安室で初めて線香が焚かれました。病室で線香を使わないのは、人目に触れ線香の臭いが染みつくのを避けるためでしょう。線香の煙が静かに上がっていくと、母の死がやけに実感を帯びてきます。私につづいてカミさんも焼香します。
寝台車が到着するまでの時間を使って、返ってきた手回り品をマイカーに運びます。母のものであったことを考えると、悲しみが募ってきます。寝台車が到着したことを葬儀社の人が病棟に伝えると、医師や看護師さんたちが見送りに来てくれ焼香してくれました。最後までありがたいことです。母の身体は、葬儀が始まるまで葬儀社の霊安室で預かってもらうことにしたため、寝台車はそれのある世田谷に向けて病院を離れました。
全てが終わって自宅に戻ったのは午前1時前でした。母が息を引き取ってから3時間余のことでしたが、私には2日も3日も過ぎたような気がしてなりませんでした。そして翌日の午前、葬儀社の担当者が自宅を訪ねてくれ、葬式の準備に関する打ち合わせとなりました。葬祭場が込み合っていることもあり、あす17日に通夜、18日に告別式ということになりました。本格的な母との別れです。奇しくもきょうは私の63回目の誕生日。ここまで育ててくれた母に改めて感謝しこころからお礼を言いたい。そして、母のぬくもりは忘れられない、大事な、大事な思い出となりました。
★脈絡のないきょうの一行
7月の参院選挙に向けて民主党の公約骨子案が分かったらしいが、年寄りを大事にする政策にしてほしい。