水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)宿場まち散策 11/12/06

 

「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/

 今年も師走がやってきました。元気に過ごせることに謝謝しつつ、1年最後の1ヶ月を気持ちよく締めくくりたいものです。

 先々週の土、日にカミさんと二人で宿場まち散策をしてきました。行ったのは中山道の奈良井(ならい)宿、妻籠(つまご)宿、馬籠(まごめ)宿の3ヶ所。奈良井宿と妻籠宿は長野県に、馬籠宿は岐阜県に属します。島崎藤村は馬籠宿の生まれです。したがって、イメージ的には馬籠宿も長野県にあると思いがちですが、これには歴史的経過があり、そのことは後ほど触れることにします。泊まったのは馬籠宿の築100年を超えるという、「但馬屋」。マイカー旅行となり、2日間の走行距離は650キロに達しました。

 奈良井宿に入る前に、カミさんが行ったことがないというので、高速道路を途中下車して諏訪大社・秋宮におまいり。本殿を囲んで角に立てられた御柱(おんばしら)4本が天を突いていました。この御柱、立派です。早朝だったことから観光客は少なく、静かな境内を歩きました。

 諏訪大社からは国道20号(甲州街道)を下り、塩尻で19号(中山道)に乗り換えて奈良井宿に向います。塩尻のまち並みを過ぎると、国道は山間部を走ります。1時間足らずで奈良井宿に到着。江戸時代は日本橋からここまで7日間かかったといいますから、6時間余で来てしまう現代文明の車のすごさを実感します。

 奈良井大橋のたもとにある駐車場に車を置いて、JR中央線の下をくぐり、奈良井駅に少し戻った場所から宿場まちを歩きました。古い家並みがそのまま残っており、風情豊かです。造り酒屋の軒下には、昨年のものでしょうか杉玉が茶色になってぶら下がっていました。そこには「日本でおひさまに一番近い(標高953メートル)蔵元」と書いてあり、アピールに余念がありません。

 まちの中ほどに「大宝寺」というお寺があります。ここは臨済宗すなわち仏教なのですが、マリヤ地蔵尊(石像)があります。マリヤと呼ばれるのは、胸の部分に十字架が彫り込まれているからです。しかし、その像には頭部がありません。キリシタン禁制の江戸時代に、この木曽地方にもキリシタンがいて、それを弾圧する意図で頭部を壊したのかもしれません。その石像は子どもを抱えていますが、その子の頭の部分も破壊されています。どこか、悲しさが漂っていました。

 まちはずれの蕎麦屋で昼食にしました。地元の蕎麦で作ったそれは、歯ごたえがあり美味しくいただきました。昼食を済ませて奈良井宿をあとにしましたが、まち中の黒の格子戸に某宗教を母体とする政党の委員長の顔が大写しされたポスター(東京でも見かけます)が貼ってあるのに、興ざめを禁じ得ませんでした。言論・表現の自由と言えばそれまでですが、産まれて間もない赤ちゃんが寝ている傍で、街宣車が高音量でがなり立てているような錯覚を覚えました。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
電力総連(連合系)が、民主党議員に「脱原発は困る」と陳情。こりゃもう、経営者だね。

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 奈良井宿から1時間半ほどで妻籠宿に到着しました。ここは08年7月、恵那山に登ったあと、御嶽山のふもとに向う途中にすぐ傍の国道を通過しています。車で走ったことのある道ですが、歩くのは初めてです。

 まち並みは奈良井宿より少し小さめでしょうか。時間が遅くなったせいもあるかもしれませんが、通りは観光客でいっぱいです。多くの人たちが宿場まちに関心を寄せているということでしょう。ここには郵便資料館があります。明治時代の郵便事業の様子がよく分かります。郵便配達はクマとの遭遇などもあり、命がけの仕事だったようです。

 妻籠宿から昔の人が歩くのがたいへんだったという妻籠峠を越えて、馬籠宿に入りました。途中に「間宿」と呼ばれる大妻籠宿があります。ここは小さな集落ですが、現在では民宿があるそうです。馬籠宿では、宿場の中ほどの「但馬屋」という旅館に〝わらじ〟をぬぎました。旅館といっても、民宿の規模を少し大きくしたもので、気遣いなど不要でのんびり過ごすことができました。

 旅館に着いたら早速荷物を置いて、宿場まちの見学です。このまち、面白いことに坂道に出来ています。ちょうど日没の時刻で、坂の上に向って歩きました。せんべい屋さんや、和菓子屋さんが並んでいます。蕎麦屋さんもあれば甘味所もあります。それらの家並みは昔ながらのままで、電燈がなければ、時代が戻ったような錯覚を起こしそうです。

 日没前の太陽が、まち並みを照らしています。その金色(こんじき)の輝きは、江戸時代から変わらぬもので、京都から江戸に嫁入りしたあの和宮も見たかもしれません。坂道の途中に「藤村記念館」があります。ここは時間が過ぎたため閉まっており、翌日、見ることにしてさらに上がります。

 県道に出たところに、「馬籠宿」の標柱が立っておりそれには「江戸江八十里半  京江五十二里半」と記されていました。合計で133里となります。当時の人々は1日10里(約40キロ)を歩いたといいますから、東京から京都まで、13日から14日かかったことになります。すごいですね。健康でなければ旅はできなかったことでしょう。

 宿場の大通りは、観光客で賑わっていました。日没の時間ですから、多くの人たちはここに泊まったのではないでしょうか。私たちが泊まった旅館の夕食時の食堂は〝満室〟でした。若いカップル、イギリスから来たというカップル、中山道を歩いているグループなど国際色豊かではありました。

 夕食後、旅館のご主人が宿泊客に「木曽節」の踊りを教えてくれました。覚えるのはたいへんでしたが、何とか「修了書」をいただくことができました。ご主人の木曽節の歌は上手でした。(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
野党各党、一川保夫防衛相に対する問責決議案を参院に提出する方針。当然だね。

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 宿場まち歩き、2日目。

 朝食を済ませ泊まり賃を支払い、荷物を車の中に仕舞い込んで、まず「藤村記念館」を訪ねました。ここは、島崎藤村の生誕地でもあります。当時の家屋は火事で焼けてしまったそうですが、一部は残っていました。

 島崎藤村は、信州の人というイメージが強いのですが、この馬籠宿は岐阜県であり、どちらかというと〝飛騨の人〟ということになりそうです。何故、馬籠宿は岐阜県なのでしょうか。その訳がわかりました。もともとこの馬籠は、明治の廃藩置県のとき(1871年)「筑摩県(ちくまけん)」に属していました。筑摩県というのは、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置された県だったのです。現在の長野県中信地方・南信地方、岐阜県飛騨にあたります。

 ところが、1876年にこの筑摩県は廃止となり、信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県にそれぞれ編入されたのです。そのとき、もともとは信濃国に属していた馬籠宿でしたが、飛騨に近かったために、岐阜県に入ることになったようです。そのため現在は岐阜県中津川市に属しているのです。

 島崎藤村は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村で生まれています。前述のように馬籠村は長野県を経て、現在の中津川市に編入されたため、藤村は「信州の出身」ということになります。ちょい、ややこしいですね。

 話しは横道にそれますが、「筑摩県」といえば、出版社の筑摩書房を連想します。実はこの出版社、筑摩県にちなんでいるのです。この会社を興したのは古田晁でしたが、古田は長野県東筑摩郡筑摩地村(現在は塩尻市に編入)の出身だったのです。その名前を企業に冠したわけです。そういえば、小ブログで紹介しました作家・上林曉の全集はこの筑摩書房から出版されています。

 藤村は「ロマン主義詩人」「自然主義作家」といわれています。詩では『初恋』があまりにも有名です。私は4連目の「林檎畠の樹の下に/おのづからなる細道は/誰が踏みそめしかたみとぞ/問ひたまふこそこいしけれ」が好きです。恋しい人に会うために、何度も通うことによってリンゴ畑に出来た細道が、目に浮かぶようです。

 作家としての藤村は『破壊』や『夜明け前』の大作も書いています。『夜明け前』は自分の父親がモデルだといいます。そういえば、前夜、旅館で木曽節の踊りを教えてもらったとき「木曽節の歌詞に『なんじゃらほい』という部分が出てくるが、これは『なんちゃらほい』という言い方が正しい」といわれましたが、確かに、『夜明け前』にはそのとおり記述してあります。

 藤村記念館には、直筆の原稿も展示してありました。綺麗で丁寧な文字です。性格が表れているのかもしれません。藤村は詩人・作家としての一方で、1935年(昭和10年)に日本ペンクラブを結成して初代会長に就任しており、活動家でもあったのです。藤村のそんな一面を垣間見つつ、ちょっとした安堵感をもらって記念館をあとにしました。藤村は1943年(昭和18年8月22日)に、神奈川県・大磯町の自宅で執筆中に倒れ没しています。71歳でした。

 馬籠宿でもう一つの発見をしました。坂道の側溝を流れる水を利用して、水車発電が行われていたのです。これはすごい。古いまち並みと、水車と、発電というおよそ似つかわしくないものがコラボしていることに驚きながら、2日間の「宿場まち歩き」に終止符をうちました。

★脈絡のないきょうの一行
野田首相、消費税10%の素案づくりを指示。対決軸が鮮明に。国民は負けない。