私がなぜ、「日本ナショナリズムの歴史」にとりくんだのか

                            梅田  正己 (編集者)

 1945年の敗戦の年、私は国民学校(小学校)4年生でした。 教育勅語を暗誦させられた最後の世代です。 一学期、やっと暗記できたと思ったら、夏休みに8・15を迎え、以後は一度も暗誦させられずに終わりました。 ナショナリズムは、したがって私には過去の遺物で終わっていました。
 それが今日の問題として立ち現われてきたのは、私が出版社に入り、高校生対象の月刊誌の編集を担当するようになってからです。 1965年、文部大臣の諮問機関・中教審は高校生世代に向けて「期待される人間像」中間草案を発表しました。 その中にこんな言葉があったのです。
 「われわれは日本の象徴として国旗をもち、国歌を歌い、また天皇を敬愛してきた。…われわれは祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと一つであることを深く考えるべきである」
 戦前日本の青少年にとって最高の命題は「忠君愛国」でした。 表現はソフトになっていますが、指し示している方向は同じです。
 この翌々年、「神話史観」にもとづく戦前の紀元節が「建国記念の日」として復活しました。
 その後、月刊誌が会社の方針で廃刊とされたため、72年、仲間と共に出版社・高文研(当初の社名は高校生文化研究会)を設立、『月刊・考える高校生』(後に『月刊ジュ・パンス』と改題)を創刊しました。市販の条件はなかったため創刊時のマニフェスト「生徒と教師を主権者とする高校教育の創造をめざす」に共鳴した全国の先生たちの〝同志的〞熱意に支えられての出発でした。
 月刊誌の刊行とあわせて教育書を中心に人文書の単行本の刊行も開始し、以後、低空飛行ながら出版活動を続けることができました。 
 文部省による国家統制の強風で教育現場が波立ってきたのは、80年代の半ばからでした。 主題は日の丸・君が代の問題です。 その掲揚・斉唱の完全実施に向けて、文部省は徐々に圧力を強め、99年2月には広島県立高校長の自殺という痛ましい事件を生みます。 そして、あろうことか、政府はこの事件を〝奇貨〞として同年8月、「国旗・国歌法」を成立させたのでした。
 こうした中、教育現場からは次第に自由な空気が失われ、息苦しくなってきます。 それと共に、先生たちの自主性のみに依拠していた私たちの月刊誌もその基盤を突き崩されてゆき、2006年、ついに34年の経歴を閉じたのでした。 あわせて同年、戦後文部行政の〝総仕上げ〞として、教育基本法の「改正」が強行されたのです。
 「教育勅語」に象徴されるように、戦前日本において国家主義の形成・確立の主舞台とされたのは学校教育でした。 戦後日本においてもその復活の主戦場となったのはやはり学校教育の現場でした。その現場をずっと見続けてきた書籍編集者として、私が国家主義の問題を引きずってきたのは考えてみれば当然かも知れません。
 大日本帝国の崩壊とともに滅び去ったはずの日本ナショナリズムが、戦後70年をかけてよみがえってきた、このしたたかな生命力の源泉はどこにあるのか、それを解明するにはその発生の地点からたどってみる必要がありはしないか――。
 そう考えて、現役引退後、私はそれにとりくんだのでした。 日本ナショナリズムの解明は、同時にこの国の政治のあり方を根底から再検討する手がかりを、きっと与えてくれるはずです。

 (『日本ナショナリズムの歴史』販促パンフレットより)


『日本ナショナリズムの歴史』販促パンフレットPDF   


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