梅田正己/編集者/歴史に刻まれ、歴史を動かす――翁長知事発言 2015/04/15

           歴史に刻まれ、歴史を動かす――翁長知事発言

                              梅田  正己 (編集者)

 「心がふるえるように感動する」ことを、沖縄語では「ふとぅふとぅー」というそうだ。
  菅官房長官と翁長沖縄県知事との会談で、菅氏に続いて行なわれた知事の冒頭発言全文が紙面に掲載された翌日(4月6日)、沖縄タイムス社には年配の読者から「ふとぅふとぅーしてきた」という感想が寄せられたという(4月7日同紙社説)。

 ◆前代未聞の対決の言葉

 沖縄県知事による名スピーチといえば、1996年7月10日、最高裁で行なわれた大田昌秀知事による意見陳述を思い出す。
  反戦地主が拒否した軍用地の強制使用を実行する手続きの上でどうしても必要な知事による「代理署名」を、世論に支えられた大田知事が拒否したため、最後の手段として首相が知事を告訴し、その裁判が最高裁にまで達したのだ。
  この、首相が知事を訴えた裁判において、最高裁の大法廷で、大田知事は沖縄の歩んだ苦難の歴史を諄々と説き、条理ある判断を切望すると結んだ。
(しかし、最高裁は異例のスピードで審理をすすめ、3カ月後には知事の訴えを棄却する。)

 一県知事が最高裁で一国の首相と対峙するということは、たしかに前代未聞のことだったろうと思う。その大法廷での大田知事の長い演説も稀有のことだったが、ただしそれは一方的な意見陳述だった。
  しかし今回の翁長知事の場合は、官邸を取り仕切る政府の最高幹部を前にして(実際、テーブルをはさんで向き合っていた)、いわば面と向かって県(民)の立場をぶつけたのである。
  現下の国家の最大の懸案である日米安保の根幹にかかわる問題、しかも世界遺産の候補ともされるサンゴの海をつぶし、1兆円にも及ぶという莫大な国費を投入する大事業の進行をめぐって、政府の最高幹部と、それを拒否する県知事とが正面から対決した会談において、双方がおのおの15分間を使って述べた主張は――報道陣に公開されたのだから――本来ならその全文を紹介すべきだったと思う。
  しかし沖縄の地元紙2紙のほかは、一般紙でそれを実行したところはなかった。みすみすチャンスを逃した、というより、問題の重大さを認識できなかったのだろうか。いや、沖縄側の条理を尽くした主張をそのまま紹介したら、官邸からにらまれると恐れたのか……。

 ◆キャラウェー高等弁務官の亡霊

 翁長知事の発言をどう見るか、内容を紹介する前に先回りしていえば、この発言は沖縄の歴史に刻まれるだけでなく、これから沖縄の歴史を動かしてゆく発言となるように私には思える。
  以下、発言のポイントをいくつか紹介したい(知事の発言はゴシック)。

 「私は、今日まで、沖縄が自ら基地を提供したことはないんだということを強調しておきたい、と思います」
 知事はこう言って、普天間飛行場をはじめ、沖縄戦の後、住民が収容所から戻ってみると、家も畑も、墓地までも米軍基地のフェンスに囲い込まれていた、あるいはその後、基地の拡張のために「銃剣とブルドーザー」で強制接収されたのが現在の基地なのだ、と述べ、こう迫り、かつ断定する。

 「自ら奪っておいてですね、県民に大変な苦しみを与え続けておいて、今や世界一危険だから、という話になって、その危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と言われている。お前たちは代替案は持っているのか、日本の安全保障はどう考えているんだ、と。こういった話が出ること自体、私は日本の国の政治の堕落ではないかと思っております」

 1945年、第二次世界大戦での敗戦の結果、沖縄を含め日本は連合国軍の占領下に置かれた。7年後の52年、サンフランシスコ講和条約の発効によって日本は占領下を脱し、独立を回復した。
  しかし沖縄は奄美などとともに、そのサンフランシスコ講和条約第3条によって日本から切り離され、引き続き米国の占領統治下に置かれることになった。
  以後20年間、沖縄はなおも米軍によって統治される。沖縄は日本ではなく、交通ルールも米国式(左側歩行)、通貨もドルであり、日本に行くにはパスポートが必要だった。日本に復帰するのは72年のことだ。
  そうしたことを、知事は次のように述べた。

 「サンフランシスコ講和条約で日本の独立と引きかえに、米軍の軍政下に差し出されて、その間、日本は高度経済成長を謳歌し、私たちは米軍を相手に過酷な自治権獲得運動をやってまいりました。想像を絶するものでした」
  こう述べて、知事は軍政時代の自身の体験にふれる。
  実は前日、西普天間米軍住宅地区の返還式の場で二人がはじめて顔を合わせたさい、菅氏は、打ち解けようとして、「お互いに法政大学の出身でしたね」と声をかけた。
  そのことにひっかけて、翁長知事はこう話した。
  「官房長官と私は、法政大学で一緒でありましたけれど、私は22歳までパスポートを持って、ドルで仕送りの送金を受けていたのですよ」

 続いて知事は、米軍統治下時代のキャラウェー高等弁務官の話に移る。
  高等弁務官という官職名は聞きなれないが、一般に知られている用語を使えば、「朝鮮総督」「インド総督」の、あの「総督」である。
  米軍政時代、沖縄には何人もの高等弁務官がやってきたが、キャラウェー高等弁務官は最悪の高等弁務官だったと言われている。そのキャラウェー高等弁務官に、知事は目の前の官房長官を重ね合わせたのである。

 「官房長官が『粛々と』という言葉を何回も使われるんですよね。僕からするとそれが、埋め立て工事に関して問答無用という姿勢が感じられて、その突き進む姿が、米軍の軍政下時代の最高権力者が弁務官でしたが、その一人、キャラウェー高等弁務官が、1963年のことですが、『沖縄の自治は神話である』と言った。
  私たちの自治権獲得運動に対して、キャラウェー弁務官は「沖縄の自治は神話だ」と言ったのです。
  官房長官の『粛々と』という言葉がしょっちゅう全国放送で出てまいりますと、このキャラウェー高等弁務官の姿が思い出されて、重なり合うように感じます。そして、私たちの70年間は何だったのか、と思われてなりません」

 菅官房長官の「粛々と」の表現が、どうしてキャラウェー高等弁務官の「沖縄の自治は神話」という放言と重なるのか。
  「自治」とはひと言でいえば、住民多数の意志で物事を決める、ということだ。「沖縄の自治は神話」というのは、だから、沖縄住民の意志というのはあってもなきがごときもの、現実には存在し得ないということだ。
  一方、「粛々と」というのは、厳粛に物事をすすめるという意味、つまり、住民多数の意志がいかに明瞭に示されようと、既定方針どおり厳粛に着々と実行するということだ。どちらも、住民多数の意志を無視・黙殺する点でぴったり重なる。

 ◆辺野古での新基地建設は不可能だ

 自治権獲得運動の代表例として、次に知事は「プライス勧告」をはね返した“島ぐるみ闘争”についてふれる。
  県民の土地を無断で囲い込んで基地をつくった米軍は、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効まで、ただの1円も使用料を払ってはいなかった。しかし講和条約にもとづいて土地を使用することになると、使用料を払わざるを得なくなった。
  ところが米軍が示した使用料は、9坪(約30㎡)の年間使用料がコーラ1本分と、とてつもなく安いものだった。しかも契約期間は20年と長かった。
  当然、土地の地主たちは猛反対、土地連を結成して米軍に立ち向かう。
  土地連は代表団を米国に派遣して米政府に直接訴える。それに応える形でプライス下院議員を団長とする調査団が来沖、1956年6月、報告書「プライス勧告」を発表する。
  民主主義の本家・米本国の議員調査団に、沖縄県民は大きな期待を寄せた。しかし「勧告」はそれを見事に裏切るものだった。
  県民の怒りが爆発した。殆どの市町村でいっせいに「プライス勧告粉砕」、適正補償・損害賠償を含む「土地を守る4原則」貫徹の住民大会が開かれたのだった。これが沖縄の戦後史に刻まれた「島ぐるみ闘争」である。
  知事が語る。

 「こうして、みんなで力を合わせて(土地取り上げを謀った)プライス勧告を阻止したんです。ですから、基地の土地(の所有権)はいまも私たちの手の中に残っているんですね。
  こういった自治権獲得の歴史は、『粛々と』という言葉で決して打ち消されるものではない、と私は思っております。
  上から目線の『粛々と』という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅されていくのではないか、とこのように思っております。
  ですから、(このような歴史を持つ沖縄において)私は辺野古の新基地は絶対に建設することは出来ない、という確信を持っております。
  こういった県民のパワーというものは、私たちの誇りと自信、祖先に対する思い、将来の子や孫に対する思いというものが全部重なっていますので、私たち一人ひとりの生きざまになってまいりますから、かりに『粛々と』進めようとしても、私はこれは絶対に建設することは不可能になるだろうなと思います」

 ◆「取り戻す日本」の中に沖縄は入っているのか?

 辺野古での基地建設は不可能だと断言した後、翁長知事は官房長官に対し、こう反問する。
  「普天間基地を視察したラムズフェルド元米国防長官が、普天間は世界一危険な飛行場だと言われました。世界一危険な飛行場をこのままほうっておくことはできない。官房長官も、県民を洗脳するかのように、普天間の危険性を除去するためには、辺野古が唯一の選択肢だとおっしゃっています。
  では、辺野古の基地ができなかったら、本当に普天間は固定化されてしまうのでしょうか。ラムズフェルドさんも官房長官も、その他多くの識者も、普天間は世界一危険な基地だと認識しているのに、辺野古の新基地ができなかったら、普天間を現状のまま固定化してしまうのか、そんなことがほんとにできるのかどうか、ぜひお聞かせ願いたいと思っております」

 実際、政府は、口を開けば「普天間の危険性除去」という。そしてそのためにこそ辺野古の新基地が必要なのだという。「普天間の危険性除去」と「辺野古の基地建設」を、あれかこれか、二者択一の関係にしているのだ。
  こうして政府によって“仕立てられた問題設定”“閉じられた思考回路”に対して、知事は、では辺野古ができなかった場合は、普天間はそのままにしておくつもりなのか、と切り込んだのである。

 官房長官だけでなく、知事は、安倍首相に対してもこう糾問する。
  「安倍総理が「日本を取り戻す」というふうに、2期目の安倍政権からおっしゃっていますが、私からすると、その『取り戻す日本』の中に、沖縄は入っているんだろうか、というのが率直な疑問です」

 次いで、もう一つの安倍語録に対しても。
  「それから『戦後レジームからの脱却』ということもよくおっしゃいますが、沖縄では逆に、『戦後レジームを死守』しているような感じがするんですね。総理は、憲法改正、積極的平和主義を訴えておられるんですが、沖縄においては戦後レジームを死守しておられるようにしか見えない。本当の意味での国の在り方から見て、なかなか納得がいきにくいですね」

 先に見たとおり、米軍は沖縄戦の最中から、占領地に基地を造り始めた。その後も基地を建設・拡張して、沖縄を「太平洋のキイストーン」として維持してきた。米軍の世界戦略にとって、沖縄の基地そのものが「戦後レジーム」にほかならない。
  その米国の「戦後レジーム」の維持・強化に奉仕しながら、「戦後レジームからの脱却」を唱えるのは、大いなる矛盾、自家撞着ではないか、「脱却」ではなくて「死守」ではないか、と翁長知事は痛烈に問いかけたのである。

 ◆沖縄の発展は「平和」の中にしかない

 そしていよいよ知事の発言は、沖縄の「民意」の話に移る。
  「昨日、官房長官のお話の中に、昨年の選挙とからめて沖縄県民の民意についてのご発言がありました。選挙の公約にはいろいろな要素が含まれていて、したがって争点もいろいろとある、と。
  しかし、昨年の名護市長選挙、とくに沖縄知事選挙、衆議院議員選挙とありましたが、争点はただ一つだったんですよ。では、その争点は何だったかと言うと、前知事が埋め立ての承認をした、そのことに対する審判、これ一点だったんです。
  テレビ討論や新聞討論では、たしかに教育、福祉、環境問題などいろいろと取り上げました。しかし、前知事と私の政策については、突き詰めると、埋め立て承認問題以外に、決定的な違いはなかったんです」

 「ですから、埋め立て承認の審判が、知事選挙の最大・唯一の争点となりました。その結果、埋め立て反対の私が、10万票の差をつけて当選したのです。もろもろの政策を勘案した結果の当選ではない。
  したがって、この選挙結果には、辺野古基地建設反対という県民の圧倒的な考えが示されたものだと思っております。そのことをぜひご理解いただきたいと思います」

 発言の最後に、翁長知事は振興策の問題についてふれる。
  この政府の財政支援による振興策の問題は、政府が沖縄対策の上で切り札とも考えている問題である。菅官房長官も、この会談の冒頭発言で、この振興策について雄弁に語っていた。

 「振興策も話されていましたので、私も最後にこの問題についてお話します。
  沖縄においては、経済の問題も基地問題と密接にかかわっております。
  基地があることによってどういう困った事態が生じたかというと、たとえば、ニューヨークの超高層ビルに旅客機が突っ込んだ、あの9・11の時です。世界中の米軍基地が厳戒態勢に入りました。
  その結果、沖縄で何が起こったかというと、観光客からのキャンセルが相次いで、一週間後には観光客が4割に減ってしまったんです。観光が主産業になった沖縄にとって、観光客が半分以下に減ったというのは大変なことです。
  あの時の沖縄の苦しみは大変なものでした。

 尖閣の問題にも危ういものがあります。尖閣は日本固有の領土でありますし、それを守るのは結構でありますが、しかし尖閣でもし何か小競り合いがあったりしたら、いま石垣島には年間100万人の観光客が訪れていますけれども、小競り合いが生じたら、その100万の観光客はたちまち10万人くらいに減ってしまう。そういう危険性が、十二分にあるんですね。

 そういう意味で、沖縄は平和の中でしか生きられない、発展できない、と私は考えています。平和の中にあってはじめて沖縄は、そのソフトパワー、自然、歴史、伝統、文化、万国津梁の精神を生かして、世界の架け橋になれる、日本のフロントランナーになれる、と私は思っています。
  そうして経済的にも伸びていき、平和の緩衝地帯となって、他の国々と摩擦が起きないように努める、そういう関係の中に沖縄を置くべきだと思うのです」

 ◆知事発言が県民世論の結集軸となって

 以上、菅官房長官に向かっての翁長知事の発言のポイントを、多少の説明を加えて紹介した。
  知事発言の全文が地元新聞社のインターネットにアップされたので、私はすぐに数人の友人に転送した。その多くから、感激した、胸を打たれた、という感想を聞いた。
  本土に暮らすものだってそうなのだから、沖縄の人々の圧倒的多くの人々が、それこそ「ふとぅふとぅーして」胸がすく思いだったにちがいない。

 この知事発言が沖縄の人々の心に響いたのは、短いスピーチの中で、戦後の沖縄の苦難の歩みを凝縮して語り、その上に今なお苦難を強いようとしている政府の不当さを鋭く突き、沖縄県民の思いと希望を真正面からぶつけたことにあったのではないかと思う。
  言い換えれば、これまでさまざまに語られてきた沖縄の言い分を、簡潔に集約し、沖縄の主張として、政府の最高幹部にぶつけたことが、人々の胸にまっすぐに落ちたのである。
  その意味で、この知事発言は、沖縄の思いと決意の結集軸となった。

 沖縄県知事のよく知られた言葉に、西銘順治知事の名言(?)がある。1980年代を通じて知事を3期つとめた西銘氏は、朝日新聞の記者に「沖縄人の心は?」と問われて、「ヤマトゥンチュ(日本人)になりたくて、なりきれない心」と答えたという。
  今回の翁長知事の発言は、こういう一種ルサンチマン的ともいえる心情に対する、きっぱりとした決別宣言だったように思える。

 沖縄がまだ米軍による植民地的な軍政下に置かれていた1960年12月、国連総会は、「植民地独立付与宣言」を採択、「すべての人民は自決の原則をもつ」ことを宣明した。
  翌61年11月、国連総会は、「植民地独立付与宣言の履行状況に関する決議」を採択する。
  それを受けて62年2月1日、琉球政府立法院(議会)は次の決議を全会一致で可決した。
  「国連総会で『あらゆる形の植民地主義を速やかに、かつ無条件に終止させることの必要を厳かに宣言する』旨の宣言が採択された今日、日本領土内で住民の意志に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟国が注意を喚起することを要望する」

 この決議を、発議者を代表して壇上で読み上げたのは、翁長助静議員だった。
  それから53年がたったのに、今なお「住民の意志に反して不当な支配がなされていることに対し」、政府の最高幹部に向かって抗議と拒否の意志をぶつけたのが、翁長助静議員の子息、翁長雄志県知事であった(琉球新報連載「道標求めて」最終回から)。

 いま、沖縄の自己決定権の獲得・確立を求めて、さまざまの動きが湧き起こっている。日米両政府の「安保の壁」「基地の壁」は厚い。本土の「無関心の壁」も厚い。しかし、知事選、衆院選によって一線を超えた沖縄の県民世論が後戻りすることは、もはやないだろう。
  知事の対官房長官発言を結集軸として、沖縄は新たな状況へと入ってゆくように思える。歴史が動く、その予感が感じられる。                         (了)
追記:知事発言の全文は東京新聞が11日付で掲載した。


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