梅田正己/編集者/近代日本の戦争は琉球で始まり、沖縄で終わった 13/08/15

        近代日本の戦争は琉球で始まり、沖縄で終わった

                                 梅田  正己 (編集者)

◆近代日本最初の対外問題

 徳川幕府を倒して天皇制による中央集権国家をつくった明治新政府が直面した最初の対外問題は、琉球王国をどう「処理」するかであった、と私は思う。
  というのも、1609年以来の250年間、琉球は実質的に日本(薩摩藩)の支配下にあったが、中国(清国)との朝貢(進貢)貿易を維持し、その利益を確保するため、中国に対しては独立王国として振る舞ってきたからだ。

 今更、あれは見せかけでした、とは言えない。しかし広大な海域に展開する琉球は何としても版図に組み入れたい。難問解決の方途がつかめぬまま、明治4(1871)年、廃藩置県を決行した翌5年、新政府はとりあえず琉球王国を廃して「琉球藩」とし、それまでの薩摩藩の「在番奉行所」に代えて「外務省出張所」を置いた。この段階ではまだ外務省管轄、つまり準外国扱いだったわけである。

◆宮古島民遭難を〝事件化〟

 ところがここに、願ってもない事件が“発見”される。明治4年、宮古島から年貢を積んで那覇へ行った船が帰途に嵐にあって遭難、台湾最南端の半島に漂着、54人が原住民に殺害され、12名だけが救助された。

 こういう事件は、しかし特に珍しい事件ではない。琉球から中国へ、黒潮を横断して行く船旅は決して安全ではなく、これまでも漂流・遭難事件は幾度も起こっていた。そこで、こうした事態は中国当局と福州・琉球館を通じて処理されることになっており、この事件も前例に従って一件落着、琉球側から感謝状も贈られていたという(赤嶺守氏「王国の消滅と沖縄の近代」『琉球・沖縄史の世界』吉川弘文館所収)。

 ところが翌5年4月、日清修好条規の改定交渉のため天津にいた日本の外務官僚が、中国の官報でこの事件の記事を見て、さっそくそれを外務省に送る。一方、那覇の外務省出張所にいた薩摩閥の官僚も、帰還した生存者から事件の話を聞き、鹿児島県庁を通して政府に報告、以後、この事件を口実として、薩摩閥を中心に「台湾出兵」が周到に準備されてゆく。

◆日本国民にされた「琉球人」

 明治7(1874)年2月、大久保利通内務卿を中心に「台湾蛮地処分要略」が閣議決定される。そこで出兵の理由とされたのが、「わが藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務」である、ということだった。
  つい1年半前に新設した「琉球藩」だが、そこに属するのだから日本国民だと言い、その報復のために出兵するのだとしたのである。そしてそれと符節を合わせるため、同年7月、「外務省出張所」から「内務省出張所」へと所管を移したのだった。

 この間、5月、西郷従道(隆盛の実弟)率いる遠征軍(3650人)が台湾へ向かう。近代日本最初の対外出兵である。
  戦争は翌月に日本の勝利で終わるが、憤激した清国政府との交渉は難航する。結局、駐清イギリス公使の調停で妥協が成立するが、その第一項は、今回の出兵は「日本国属民」保護のための「義挙」であることを清国側が認める、というものだった。ということは、琉球は日本に属することを認めたにひとしい。

 こうして、明治新政府にとっての対外関係での最初の難問――琉球の14世紀以来5百年にわたって続いてきた中国との宗主国‐属邦関係をどう断ち切るか、という問題――は、強引な論理と軍事力によって解決された。
  くり返すが、明治7(1874)年の台湾出兵は、近代日本の最初の対外武力行使である。そしてそれは、琉球を日本の領土に組み入れ、琉球人民を日本国民とする意図をもって、新政権により計画され、強行された。
  台湾出兵の隠されたねらいは「琉球」だったのである。

◆「最大で最後」の日米決戦

 台湾出兵から70年後、沖縄は戦場となる。1944年10月、那覇を全壊させた十・十空襲を前触れとして、翌45年3月下旬から6月下旬までの3カ月間、沖縄は鉄の暴風にさらされ続けた。
  沖縄戦はよく「日米最後の決戦」といわれる。しかし私は、「最大で最後の決戦」だったと見る。一つの指標は米軍の戦死者数である。
  太平洋各地の激戦での米軍の戦死者数を見ると、ガダルカナル島攻防戦での戦死者数は1598人、レイテ島決戦で3504人、米軍の死傷者数が唯一日本軍を上回ったといわれる硫黄島が6867人と記録されている。
  沖縄戦ではどうだったか。陸上の戦闘と並行して続けられた日本軍の特攻作戦による海上での戦死者約4千9百人を含めて1万2520人となっている。硫黄島のほぼ倍である。泥濘の中での戦闘が米軍兵士たちにとってもいかに苛酷・悲惨なものであったか、G・ファイファーの大著『天王山』上下2冊(早川書房)の中に多くの米兵の証言が引かれている。

 沖縄戦からなお2カ月たらず、戦争は続く。だがその間、日本本土は2発の原爆投下を含む米軍爆撃機による空爆の下、ただうめき続けるだけで、もはやなすすべはなかった。戦争は、実態として沖縄戦で終わっていたのである。
  70年余を通して10回を超える大日本帝国時代の出兵・戦争は、「琉球」から始まり、「沖縄」で終わった。

  その沖縄で、いま何が進行しているか。
  もう何年も前から自衛隊の戦略目標は南西諸島の「島嶼防衛」に設定され、陸上自衛隊の"海兵隊化“が着々と進められている。与那国島では沿岸監視部隊配備のための用地が仮契約され、7月には安倍首相が石垣島の海上保安部と宮古島の航空自衛隊基地を“前線視察”し、「私も諸君の先頭に立つ」と激励した。
  戦争をどこよりも痛切に知っている沖縄が、いままた「国家防衛」の最前線に立たされているのである。                                            (了)

※本稿は、今年8月15日付の沖縄タイムス・文化欄に寄稿・掲載されたものです。