梅田正己/編集者/朝日はだれの立場に立っているのか?――国会原発事故調での菅前首相の参考人発言をめぐって 12/05/29

 

朝日はだれの立場に立っているのか?――国会原発事故調での菅前首相の参考人発言をめぐって

梅田  正己 (書籍編集者)

5月28日、経産省の審議会は、今後とるべき原発政策について、5つの選択肢を用意した。
そのうちの一つは、なんと「原発による電力の割合を35%とする」というものだった。
3・11以前に民主党が言っていた30%を超えて、さらに原発を推進する数字だ。
さすがにこれは撤回したものの、こういう案を恥ずかしげもなく出してくるのが、今の政・財・官の倫理感覚だ。

さて、同じ5月28日、国会の事故調査委員会は、菅直人前首相を参考人招致、3時間にわたって質疑を重ねた。
これから私が書こうとしているのは、その質疑についての朝日新聞(29日付)の報道の仕方である。
2面の解説記事の出だしのところでこう書いている。

《冒頭に責任を明確に認めて陳謝した菅氏だったが、その後は自らの事故対応の適切さを強調し続ける「菅劇場」を展開した。》

「菅劇場」とは一体どういうことなのだろうか?
質問そっちのけで、一人でまくしたてる、ひとり舞台だったという意味か?
それとも、身ぶり手ぶりよろしく、芝居気たっぷりの演説だったという意味か?

解説記事は、続いてこう書いている。
《事前には周到に準備。細野豪志環境相(元首相補佐官)に当時の官邸と現場との連絡状況を問い合わせたり、国会事故調のネット中継を見たり。理論武装のための資料を用意し、首相時代の秘書官も同席させた。》

国権の最高機関である国会に設置された事故調査委員会に招致されて、「訊問」を受けるのである。
「事前には周到に準備」するのは当然ではないだろうか? 逆に「周到な準備」もせずに出て行くのこそ、横着、無責任ではないのか?
あの修羅場の中、同じ場所で行動を共にした首相補佐官に問い合わせたりするのも当然ではないだろうか? それを怠ることこそ、客観性を疑われるのではないか?
「国会事故調のネット中継を見たり」するのが、そんなに奇異なことだろうか? 次は自分が呼ばれるのだから、その様子を見ない方がよっぽどおかしいのではないか?
「理論武装のための資料を用意し」と、わざわざ「理論武装」という用語を使っている。これは、見出しにも使われている。
しかし、国会に呼ばれ、そこでの発言は全国の国民に報道されるのである。記憶を確かめ、それをどんな言葉で表現し、どういう意見にまとめるか、いろいろと考えるのは当然ではないのか? それをなぜ「理論武装」という、論争を前提とする用語で表現するのか?

以上は、新聞でわずか13行の記事の引用である。なのに疑問だらけだ。
これらの疑問の背後に透けて見えるのは、菅前首相に対する疑惑と批判である。
一年前、政・財・官・メディアを席巻した「菅おろし」の激しさは、今も記憶に新しい。その「菅おろし」が今も尾を引いているのだろうか。
しかし、ここではその是非は問わない。

代わりに、同じ朝日29日付の7面の下半分を使って報じられている「国会事故調、菅前首相の主なやりとり」から、菅氏の意見の一部を引用・紹介しておきたい。

《…今回の福島原発事故は、わが国全体のある意味で病根を照らし出したと認識している。
戦前、軍部が政治の実権を掌握した。東電と電事連(電気事業連合会)を中心とする、いわゆる「原子力ムラ」が私には重なって見えた。東電と電事連を中心に原子力行政の実権をこの40年間、次第に掌握し、批判的な専門家や政治家、官僚は村八分にされ、多くの関係者は自己保身とことなかれ主義に陥って、それを眺めていた。私自身の反省を含めて申し上げている。》

《現在、「原子力ムラ」は今回の事故に対する反省もないまま、原子力行政の実権をさらに握り続けようとしている。
戦前の軍部にも似た、原子力ムラの組織的構造、社会心理的構造を徹底的に解明して、解体することが、原子力行政の抜本的改革の第一歩だ。》

この小論の冒頭で、「原発35%」案が出たことにふれた。
ここに、3・11を経ながら、依然として変わらないこの国の原子力行政の姿がある。
そうした原子力推進派に促されて野田内閣の再稼動への前のめりがある。
引用した菅前首相の意見は、それにまっこうから対立し、かつ本質を突いた意見ではないか?
その意見陳述を、「菅劇場」とか「理論武装」などと揶揄的にしか報道できない新聞は、一体だれの立場に立っているのか?
                      *
半世紀以上、朝日を読み続けてきた読者として、やりきれない思いで、この原稿を書いた。