梅田正己/書籍編集者/横浜事件・再審裁判  再審申し立てから22年 ついに「実質無罪」決定――「史上最大の言論弾圧事件」は“虚構”と判定/08/11/08


 

■横浜事件・再審裁判

 

再審申し立てから22年 ついに「実質無罪」決定

――「史上最大の言論弾圧事件」は“虚構”と判定

 

 梅田 正己(横浜事件・再審裁判を支援する会事務局員。書籍編集者。畑中繁雄『日本ファシズムの言論弾圧抄史』小野貞他『横浜事件・妻と妹の手記』(いずれも高文研)などを編集・出版)

 

 

 この10月31日、横浜事件再審裁判の第四次請求に対する横浜地裁「決定」が出された。1986年に再審を申し立ててから22年、ついに下された「実質無罪」の決定である。

 

 この「再審開始」決定は全国紙の一面あるいは社会面のトップで紹介されたが、なにしろ事件そのものが複雑で、再審裁判も22年間、4次にわたるものだっただけに、その「歴史的」意味について十分に伝えられたとは言いがたい。

 

 そこで、だいぶ長くなるが、事件の輪郭と裁判の経過を述べ、今回の決定の「歴史的意味」を伝えたい。

 

◆虚構の犯罪と拷問

 

 アジア太平洋戦争中の1942(昭和17)年から45年にわたる横浜事件は、よく「戦時下最大の言論弾圧事件」と称される。

 

 しかし私は、戦時下のみならず「日本近代史上最大の言論弾圧事件」だったと考えている。というのは、これにより『中央公論』『改造』という当時の言論界を代表する2大総合雑誌が廃刊となり、その編集者や寄稿者を含む60余名が検挙されてうち4名が獄死、さらに中央公論社、改造社という出版社自体もつぶされてしまったからだ。

 

 検挙はすべて治安維持法違反で行われたが、かんじんの「犯罪事実」はどこにもなかった。事実として唯一存在したのは、国際政治学者の細川嘉六が『改造』12年8、9月号に寄稿した論文「世界史の動向と日本」だけである。

 

 アジア諸国の民族自決への支援を訴えたこの論文を「共産主義宣伝の論文」として発禁処分とした特高警察は、さらに同年7月、細川が自著の印税収入で親しい編集者らを郷里の富山県泊に招いて行った宴会を「共産党再建準備会」と決め付け、参加者を検挙するとともに、その交友関係者を次々に検挙していった。

 

 徹底した弾圧により思想的廃墟となっていた戦時下の日本で、共産党再建など夢にも考えられなかったのは自明のことだ。しかし神奈川県特高は、自ら作り出したこのフィクションを自白によって"実証"するために、検挙した人々に対し横浜市内の各警察署で激しい拷問を加えた(ここから「横浜事件」という呼び名が生まれる)。こうして、凄惨な拷問による自白の連鎖が横浜事件の特徴の一つとなった。

 

◆“記録がない”の壁

 

 戦後まもなく、検挙・拷問の被害者33名はそれぞれの被害状況を口述書にまとめ特高警察官を告訴した。その結果、1952年、最高裁判決で3名の特高警察官が特別公務員暴行凌虐罪で有罪となった。

 

 時をへて86年、国家秘密法案が国会に提出され、治安維持法の時代再来が危惧される中、横浜事件の被害者・遺族九名が、横浜地裁に再審を請求した。

 

 終戦直後の即日判決で有罪判決を受けたが、まったくのやっつけ裁判だったから、裁判をやり直してほしいという請求である。

 

 再審請求には「新証拠」が必要とされる。その「新証拠」が52年の最高裁判決だった。終戦直後の判決で有罪の証拠とされているのは各人の「自白」である。しかし特高警官による拷問の事実が確証されたことで自白の真実性も崩壊した。したがって再審を行い、有罪判決を撤回してほしいという請求である。

 

 しかしこの再審請求に対し地裁判決は、一件記録の不存在を理由に棄却した。

 

 敗戦直後、日本の政府、軍は占領軍による責任追及を逃れるため重要書類を焼却隠滅した。横浜事件の記録も裁判所で焼却したものと思われるが、原因はともかく記録がない以上、審理のしようがない、というのが地裁の棄却理由だった。

 

 抗告した東京高裁も88年、同じ理由で棄却、91年の最高裁の棄却で第1次請求は終わった。

 

◆第2次は「憶測」で棄却

 

 “記録がない”の門前払いの壁を突破するために請求人や弁護団が考えたのが、予審集結決定と判決書がそろって残っている『改造』編集部員だった故小野康人氏の遺族(夫人と遺児)に請求人を引き受けてもらうという道だった。

 

 これにより再審の門が開かれれば、同じ条件下にある他の事件被害者もその後に続くことができるはずだ。

 

 こうして94年、第2次再審請求が始まった。「新証拠」は、前掲の細川論文である。というのは、小野氏の「犯罪事実」は細川論文の掲載に賛同し、その校正をやったことだったが、判決書の証拠欄にはかんじんの細川論文が掲げられていなかったからである。

 

 ところがこれに対しても、地裁は驚くべき“理屈”で対応してきた。「犯罪事実」はこの論文に関係しているのだから、証拠欄には確かに記載はないが、判決に当たっては「読んだはずである」というのである。

 

 そしてこの裁判所の一方的憶測は高裁から最高裁まで持ち越され、第2次再審請求も2000年7月、棄却で終わったのだった。

 

◆第三次で振出しに戻る

 

 この間、98年には、被害者の木村亨氏を中心に第三次再審請求が提起されていた。申し立ての理由は次のような主張である。

 

 @ 横浜事件の治安維持法違反による有罪判決は終戦直後の法廷で下された。

 A 一方、日本は「民主化に対する一切の障害を除去すべし」の条件を含むポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。

 B したがって宣言受諾とともに弾圧法規である治安維持法は失効しており、失効した法律による裁判は無効、というのである。

 

 これを受け横浜地裁は、大石真・京大教授にこの「学説」の鑑定を依頼し、その失効説にもとづいて03年4月、「再審開始」を決定した。

 

 つづく東京高裁の控訴審でも、05年3月、中川武隆裁判長は再審開始を決定した。ただし、ポツダム宣言による失効説は問題にならないと一蹴し(事実、治安維持法被害者は戦後も2ヵ月余獄中にあり、哲学者三木清はその間に獄死した)、それよりも併せて提出されていた「拷問」の事実こそが再審開始の根拠となる、と判定した。

 

 拷問による自白は、第1次再審申し立ての理由である。つまり再審裁判は18年余をへて振り出しに戻ったことになる。しかしこの時、被害者たちの姿はもはやこの世になかった。

 

◆「免訴」判決の欺瞞

 

 こうして再審は開始されたものの、ポツダム宣言による治安維持法失効説は重要な問題を含んでいた。失効した法律による裁判無効説は、事件の再審理はしないまま、法解釈だけで免訴(判決はなかったことにする!)に終わることが予想されたからである。

 はたして、開始された横浜地裁の再審裁判では弁論だけは聞いたものの事件の中身には一歩も踏み込むことなく免訴判決を下した。

 

 つづく東京高裁でも、さらに08年3月の最高裁でも、判決は「免訴」に終わった。特高がでっちあげた虚構の犯罪により、やっつけ裁判で下された有罪判決は否定されぬまま残った。

 

◆第4次請求の課題

 

 この間、02年3月、再び小野康人氏の遺族により第4次再審請求が行われた。今回、新証拠として提出したのは小野氏の予審終結決定書や細川論文である。

 

 第2次大戦前の日本には予審制度があった。公判前に強制捜査権をもつ予審判事が取り調べる制度である。

 

 残存するその小野氏の予審終結決定書では、例の富山県泊での宴会が「共産党再建準備会」に仕立てられ、そこでの決定に従ってマニフェストとしての細川論文「世界史の動向と日本」が執筆されたのだということがるる述べられていた。

 

 ところが、これも残存する公判での判決書では、他の部分は予審終結決定と一字一句違わないのに、「泊会議」に関する部分だけがすっぽりと削られている。

 

 これはつまり、公判を前に「泊会議=共産党再建準備会」が虚構だったことを裁判所自身が認めていたからにほかならない。

 

 また細川論文も、あわせて提出した現代史家の今井清一、荒井信一、波多野澄雄各氏の鑑定書を見れば、共産主義啓蒙論文などではないことがわかる。

 

 こうして、核心部分の泊会議と細川論文の虚構が証明されれば、横浜事件の構図全体が崩壊する。

 

 このように第四次再審請求は、正面から横浜事件の虚構を証明し、それによって「無罪」を勝ち取ることを目標に定めていた。

 

◆「実質無罪」を求めて

 

 ところが途中、先行する第3次に対し「免訴」の判決があり、やがてそれは最高裁で確定した。

 

 同じ横浜事件の裁判である。第4次に対しても「再審開始」となることは当然予想される。しかしまた、最高裁判決がある以上、結論が「免訴」となることももはや避けられない。

 

 であるなら、最初の地裁における「再審開始」の決定の中で、事件の内側に踏み込んで証拠を再調査し、事件全体の虚構性を明らかにすることで実質的に「無罪」を示してもらうよりほかに道はない。

 

 そこで弁護団は裁判所に対し、事件の内容に立ち入って審理を行い、その上で「決定」が下されるよう、幾度も要請した。

 

 そして申し立てから6年半、08年10月31日、横浜地裁・大島隆明裁判長によりついに「実質無罪」を示す「再審開始」決定が下されたのである。

 

◆「無罪」を導く論理

 

 さてその地裁の「決定」であるが、証拠として取り上げたのは、弁護団が提出した予審終結決定や細川論文の鑑定書ではなく、第3次での東京高裁の中川決定と同じ「拷問による自白」だった。

 

 先に述べたように、戦後まもなく被害者33名が特高警察官らを告発した際、それぞれ口述書を提出したが、今回の決定ではその口述書が実に8ページ(決定書全体の4分の1)にわたって引用された。

 

 その上で、拷問の事実が次のように総括される。

 

 「横浜事件の被疑者らは…劣悪な環境にある警察留置場に勾留されている間…相当回数にわたり…時には失神させられるような暴行を伴う激しい拷問を加えられ、生命の危険を感じるなどした結果…やむなく虚偽の自白をして手記を作成したり…尋問調書に署名指印したりすることを余儀なくされた…ことがうかがわれ、特に、細川と親しかった小野や相川に対しては厳しい追及が行われたと推測される」

 

 この「推測」を土台にして「決定」は、@有罪の原判決が「拙速」の即日判決で「ずさんな事件処理」がうかがわれること、A泊での「共産党再建準備会」の写真はどう見ても慰労会にしか見えないこと、B細川論文を最初に「共産主義宣伝の論文」と断定し摘発した陸軍報道部の平櫛少佐が、戦後の著作で、それは出版社へのたんなる威嚇行為だったと認めていること――などを総合して判断すると、小野氏の治安維持法違反を「証すべき証拠が存在しないこととなり、直ちに確定判決の有罪の事実認定が揺らぐこととなる」と結論したのである。

 

◆事件の虚構を解明

 

 以上見たように今回の決定は、「拷問による自白」を基礎にしながらも、これまで四次にわたって提出された証拠類を精査し、横浜事件の全体構造を見渡して導き出されたものである。

 

 そのことは末尾の方で、特高告発の全口述書をはじめ、小野貞さんほか被害者たちの著作や供述、第1次の際に作成した請求人9人の証言ビデオ、泊での写真、平櫛の著書、泊会議から細川論文掲載までの絶対的な日数不足を証明した橋本論文などの「証拠は、小野に対して無罪を言い渡すべき、新たに発見した明確な証拠であるということができる」と言い切っていることからもわかる。

 

 決定から4日後、横浜地検は高裁への抗告を行わないと発表した。

 

 こうして「日本近代史上最大の言論弾圧事件」は、国家権力によってでっち上げられた虚構=フレームアップだったことが裁判において確定したのである。

 

◆司法の責任と裁判所の良心

 

 最後にもう一点、述べておきたいことがある。司法の責任の問題である。

 

 横浜事件はこれまでもっぱら特高警察の無法行為と結びつけて語られてきた。その理由は先に見たとおりだ。しかし、有罪判決を下したのは裁判官であり、そこにはもちろん検察官もかかわっている。

 

 そこで第四次の弁護団は、やっつけ裁判で有罪判決を下した裁判所の責任についても指摘した。

 

 それに応えてか、今回の決定は大先輩の裁判官の「拙速」と「ずさんな事件処理」を批判したことは先に見た。

 

 さらに今回の大島決定は、第一次請求に対し「記録がない」の一点張りで門前払いした同じ横浜地裁の判定についても、次のようにきっぱりと批判した。

 

 「……横浜事件の記録も、裁判所の側において、連合国との関係において不都合な事実を隠蔽しようとする意図で廃棄した可能性が高いのであるから、裁判所の責任において、できる限り関係する資料から合理的に確定審の記録の内容を推知すべきである。新旧の証拠資料の対照が困難であるという理由で……再審請求を認めないなどというのは裁判所の取るべき姿勢ではなく、でき得る限り……請求人らに不利益にならないように証拠の再現等に努めるのが、裁判所の責務であると解される」

 

 見事というほかない。

 

 22年間、四次にわたる横浜事件再審裁判で下された決定・判決は全部で12件、うち裁判官の良心を受け止めることが出来たのは東京高裁の中川決定と今回とで2件、6分の1にすぎない。それだけに、この大島決定が、22年を費やして得られた成果として広く評価されることを願ってやまない。(了)