梅田正己/書籍編集者/戦争指導者の本質――東条英機の直筆メモを読んで08/08/16

戦争指導者の本質

――東条英機の直筆メモを読んで

 

 梅田 正己(書籍編集者。著書『変貌する自衛隊と日米同盟』他)

 

 8月12日の各紙夕刊で、東条英機元首相がアジア太平洋戦争(第二次大戦)での日本敗戦の直前、1945年8月10日から14日にかけて書き付けていた直筆のメモが公開されたと報じられた。

 

 東京裁判(1946年5月〜48年11月)で東条の弁護人を務めた清瀬一郎(のち衆議院議長)が他の裁判資料と共に法務省に寄贈、99年に国立公文書館に移管していたものだという。

 

 東条といえば、中国との戦争で泥沼に落ち込んでいた日本がさらに米英と開戦した当時(41年12月)から、敗戦が決定的となった44年7月まで総理大臣の座にあり、その間(時期はずれるが)陸軍大臣はじめ外務大臣、文部大臣、軍需大臣、さらには参謀総長まで兼任した人物である。

 

 まさに日本軍国主義を一身に体現した政治家・陸軍大将であった。

 

 そのような重要人物の重要資料(戦後の民主主義を構築してゆく上で、日本軍国主義の本質がいかなるものであったかを認識・確認することは不可欠だった)を、寄贈を受けてから半世紀も封印し、今頃になって公開するこの国の官僚の民主主義感覚はなんとも言いようがない。

 

 それはさておき、「直筆メモ」の抜粋を朝日新聞で読んだ。

 

 メモの日付は8月10日から14日までだが、周知のようにポツダム宣言(日本への降伏勧告)が米、英、中国首脳の名によって日本政府に突きつけられたのは、7月26日である。

 

 ところがその文中に、国体護持(天皇制の維持)については何も触れられていなかったため、日本政府・軍首脳部はこの勧告を「黙殺」した。

 

 そこでこれを「拒否」と受け取った連合国は、日本への空襲を続行するとともに、8月6日と9日、原爆を投下し、また9日にはソ連が米英との約束にしたがって対日宣戦布告、満州へとなだれ込んできた。

 

 7月26日、事態を客観的に認識してポツダム宣言を受け入れておれば、原爆もなく、ソ連参戦もなかったのに、というのはよく言われるとおりである。

 

 さて、8月10日の東条メモにこうある。

 

 総理官邸での重臣懇談会で、外務大臣から、

 

 「……敵側提示の無条件降伏(注・ポツダム宣言)を、国体護持の一点に保留し、他は応諾の用意ありとの決定を廟議(びょうぎ。政府・軍首脳による戦争最高指導会議のこと)に於いて決定し、御裁可(天皇の許可)を経て既に敵側に通告済みにして、その回答を待ちつつあり」

 

という説明を受けたが、この通りだと受け取っていいのか、と確かめたところ、その通りだという答えだった――という記述である。

 

 沖縄戦の証言(兼城一編著『沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録』下巻)の中に、8月10日の夜のことが出てくる。

 

 沖縄本島の南端(島尻)に追い詰められた中学生兵士が、米軍の包囲網を突破して本島北部の国頭(くにがみ)へ向かう際、米軍のキャンプの横を通る。

 

 そのとき、キャンプにはあかあかと灯がともり、米兵たちは夜空に向けて実弾を撃ちまくり、まるでお祭り騒ぎだったというのだ。

 

 つまり、8月10日の時点で、日本はポツダム宣言受諾を連合国に通告していた。実質的に戦争は終わっていたのだ。

 

 しかし、「国体護持」の一点が確認できなかったために、政府・軍首脳は自国の国民にはそのことを知らせなかった。

 

 もしもこの時点で戦争に終止符を打っていたら、どうだったか。

 

 少なくとも、今ほどの規模で「中国残留孤児」の悲劇は起こらなかったはずだ(02年、帰国した「孤児」の9割、2,200人(!)が、国の謝罪と賠償を求め全国15の地裁に提訴した)。

 

 また、シベリア抑留60万人の悲劇も、あれほどの規模では生じなかったろう。

 

 どちらの悲劇も、その大半は、満州に150万のソ連軍がなだれ込んできて、たちまち席巻してしまった15日までの1週間をベースにして起こっているからである。

 

 しかし政府・軍は、国策として満州に送り込んだ国民のことなど歯牙にもかけず、ただ「国体護持」の確証だけを求めて日数を重ねる。

 

 東条ももちろんそうである。しかもこの男の場合、情勢認識も完全にトチ狂っている。

 

 同じ10日の日付で、「御召(おめし)により、重臣一同参内(さんだい)。聖上(天皇)より……重臣の意見を問」われたので、「東条大将」はこう「奉答」した、として、一から五まであるうち四番目に次のように書いている。

 

 「皇位確保、国体護持に就いては当然にして、之れをしも否定する敵側の態度なりとせば、一億一人となるを敢然戦ふべきは当然なり。而(しこう)して統帥大権を含む統治大権は毫末も(ごうまつも。みじんも)敵側に触れしむべきに在らず」

 

 文中の「一億一人となるを」というのは、一億の国民が心を一つにして、という意味か、あるいは、一億人がたとえ一人となっても、というのか、わからない。

 

 しかし、天皇の統治大権には一指も触れさせない、というのはどういうことか。

 

 周知のように大日本帝国憲法は、「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まっていた。

 

 天皇の統治権をそのままにするということは、ポツダム宣言の一項「民主主義的傾向の強化」を無視して、日本の政治体制の根本を変更しないということだ。

 

 東条の頭の構造は、自国民300万の死者を生み、国土を滅茶苦茶に破壊された後も、開戦当時とまったく変わっていなかったということだ。

 

 その証拠に、続く11日の「今後予見すべき情勢判断」にも、こう書いている。

 

 「第一線将兵は今日、その必勝を信じ、敢闘しつつ在り。若者は勇躍大義の為、喜んで死地に就きつつ在」るのに、「然るに、新爆弾に脅へ(おびえ)ソ連の参戦に腰をぬかし……無条件降伏を応諾せりとの印象は、軍将兵の志気を挫折せしめ、国民の戦闘意志(の低下に)……更に拍車を加ふる結果となり」

 

 つまり東条は、日本中の主要な都市があらかた焦土と化した上に、原爆投下やソ連参戦を招くという絶望的状況にありながら、この国の若者をなおも死地に追いやり(メモには「犬死」という言葉が重ねて出てくる)、子どもや年寄りをなおも焼夷弾や機銃の下にさらし続けようと考えていたのである。

 

 このような狂信的な単細胞が、総理大臣の座にすわり、他の大臣職も兼務し、独裁的な権力を振るったのである。この国の敗北は必然であった。