梅田正己/編集者/ 沖縄「集団自決」裁判(大江・岩波訴訟)  近頃まれに見る

理性的判決/08/04/01

            


沖縄「集団自決」裁判(大江・岩波訴訟)   

近頃まれに見る理性的判決             

梅田 正己

3月28日、大阪地裁(深見敏正裁判長)は、『沖縄ノート』の著者・大江健三郎氏と発行元の岩波書店を名誉毀損で告訴した裁判で、原告の元軍人らの請求を全面的に棄却した。
最近の裁判は、去る3月14日に出された横浜事件・第3次再審請求の最高裁判決が、事件の本質に背を向け、逃げとはぐらかしの法技術論に終始していた例に見るように、市民の常識(コモン・センス)からズレていることが多い。
しかし今回の大阪地裁の判決は、全体をつらぬく理性的判断と明快な論理構成で出色の判決だった。
私はその「判決要旨」(新聞のほぼ半ページ)を琉球新報(3・29付)で読んだが、全国紙でも掲載してほしい、筋の通った明晰な判決だ。

この裁判は、原告の海上特攻隊の2人の戦隊長が「座間味島、渡嘉敷島の住民に集団自決を命じ、住民を多数死なせながら、自らは生き延びた」という「虚偽の事実」を書かれたことにより「社会的評価を著しく低下させられ」「人格権を侵害された」として告訴したものだ。

そこでまず、判決は、名誉毀損に関しての判断基準――「名誉毀損の正否の基準」についてこう提示する。
(1)まず、その行為(この場合は書籍の執筆・出版)が特定個人の名誉を毀損したかどうかを判定する。
(2)訴えどおり名誉毀損が存在したとして、次に「その行為が公共の利害に関する事実に係わり、かつ、その目的がもっぱら公益を図るもの」であるかどうかを判定する。
(3)その結果、「公益を図るもの」と判定された場合、それに加えて、そこに述べられた事実が真実であった場合、あるいはその事実を真実と信じるだけの相当の理由がある場合は、
(4)結論として「不法行為は成立しないものと解するのが相当である」というのである。

以上の「名誉毀損についての判断の基準」を示した上で、判決は裁判での「争点」について判断してゆく。
まず争点@。大江氏の『沖縄ノート』には、2人の戦隊長の個人名は書かれていない。
被告側(大江・岩波側)の弁護団はその点を取り上げ、匿名だから個人攻撃には当たらないと主張した。
しかし、判決は、これまでの地元紙の報道や関連書籍の読者にとっては、具体的な名前は書かれてなくとも、それが誰であるかを特定できるとしてこう述べる。

「諸文献を踏まえれば、不特定多数の者が、沖縄ノートのその記載が原告梅澤(注:座間味島の戦隊長)に関する記述であると特定ないし同定し得ることは否定できない。被告らの主張は理由がない。」

争点A。このように被告側の主張を退けた上で、次に判決は、上記(1)の「名誉毀損性の有無」についての判断に入ってゆく。
そしてこの点についても、判決は『沖縄ノート』の記述が元戦隊長の名誉を毀損するものだったことをあっさり承認する。

「『沖縄ノート』の記述は……赤松大尉が渡嘉敷島での集団自決を強制したことを前提とする記述になっており、集団自決という残忍な行為を強制したものとして、赤松大尉の客観的な社会的評価を低下させる記載であることは明らかである。」

以上のように、判決は、原告側が主張する名誉毀損の事実を承認した。
そこで問題は、争点Bとして、冒頭に提示した「名誉毀損の正否の基準」である「目的の公益性の有無」の判断に移ることになる。
そして判決は、直ちに大江氏の著作の「公益性」を承認するのである。

「本件書籍は、公共の利害に関する事実に係わり、もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。」

争点CおよびD。
以上のように論証を積み上げてきて、いよいよ最後の問題に至る。
大江氏の『沖縄ノート』で述べられていることが、真実か、ないしは真実と信じるについて相当の理由があるかどうか、という問題(「真実性および真実相当性」)だ。
もし、『沖縄ノート』の記述が真実ないし真実相当性があれば、本書が公益を図る目的で出版されたことは明らかだから、名誉毀損の事実はあっても「不法行為は成立しない」となるわけだ。

この検討の中で、判決は原告側、被告側の主張や提出した資料について、具体的に検討してゆく。
たとえば原告側が有力な資料として提出した曾野綾子著『ある神話の背景』について、判決はこう判定する。
「『ある神話の背景』は、執筆者の曾野綾子が富山兵事主任(注:兵事主任とは、軍の命令を行政に伝える最重要の役割担当者)に取材しなかったと証言しているところから、取材に偏りがなかったか疑問が生じる。」

また判決は、原告・梅澤元戦隊長の供述についても強い疑問を呈する。
「原告梅澤作成の陳述書には、不自然さがあり、信用性に問題がある。」
「皆本証人(注:梅澤隊長の部下の将校)は、手榴弾(注:「集団自決」では軍から手渡された手榴弾が真っ先に使われた)の交付について『おそらく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思う』と証言している。そのような状況なら第一戦隊長である原告梅澤の了解なしに手榴弾を交付したというのは不自然である。」
「こうした事実に照らせば、梅澤作成の陳述書と本人尋問の結果は、信用性に疑問がある。」

これに対し、一方、「集団自決」体験者の証言については、判決はその信用性を高く評価する。
「『沖縄県史 第10巻』『座間味村史 下巻』『沖縄の証言』には証言者名入りの体験談の記述がある。渡嘉敷島の集団自決についても、実名入りの体験者の体験談等がある。また本件訴訟を契機に、新たな体験談が新聞報道されたり、本訴に陳述書として提出された。
こうした沖縄戦の体験者らの体験談等は、いずれも自身の体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、その信用性を相互に補完しあう。」

このように判決は、自ら傷口をあばく思いで語られた体験者の証言に正面から向き合い、その地底から聞こえてくるようなうめき声に耳を傾けた。
以上のような検証を重ねた上で、判決はいよいよ、日本軍(離島におけるその最高責任者が梅澤、赤松の両戦隊長だった)と「集団自決」の関連について判定を下す。

「慶良間諸島において集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかった――などの事実を踏まえると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認められる。」
「それぞれの島では、原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると、それぞれの島における集団自決に、原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども、自決命令の伝達経路が判然としないため、本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。」

末尾の「躊躇を禁じ得ない」という表現には、思わず肩すかしに会ったような気がしないでもないが、軍によるきびしい防諜(スパイ監視)体制の下、軍の命令を受ける立場にあった村行政の幹部たちが「集団自決」で命を断ってしまった後では、「自決命令の伝達経路」など知り得ようはずもない。
したがって、「原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実だと断定はできない」が、しかし――
「その事実については、合理的資料もしくは根拠があると評価できるから」
「被告らが本件各記述が真実であると信じるについて相当の理由があったものと認める。」

このように判決は、『沖縄ノート』に対し、最初に示した「名誉毀損についての基準」の(3)に挙げた「真実相当性」を承認する。そこで結論は――
「したがって、被告らによる原告梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず、それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の出版等の差し止め請求も理由がない。」
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以上のように、今回の判決は、検証と論理を積み重ねて構築された、きわめて明快なものである。
ところが、毎日新聞(3・28夕刊)によると、原告を支援してきた秦郁彦氏(日本近現代史)は、こう述べている。
「法的判断を放棄した、はっきりしない、逃げの判決だ。」
これほど「法的判断」につらぬかれている判決に対し、秦氏は「法的判断を放棄した」と言うのである。歴史家にとって第一に求められる能力は、文献資料の読み取り能力だ。秦氏にはもう一度、判決を読んでもらわなくてはならない。

また読売新聞(3・29)の社説は、このように述べた。
「判決は、旧日本軍が集団自決に『深く関与』していたと認定したうえで原告の訴えを棄却した。/しかし『自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない』とし、『命令』についての判断は避けた。」

ウソを書いてはいけない。上に紹介したように、判決は、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても、その事実については合理的資料もしくは根拠があると評価できる」として『沖縄ノート』の記述の「真実相当性」を認め、よって名誉毀損は成立しない、と判定したのである。

読売の社説はこう結ばれている。
「原告は控訴する構えだ。上級審での審理を見守りたい。」

これからも、いかがわしい言説が巻き散らかされることだろう。
それらに惑わされないためにも、今回の判決がきちんと読まれてほしいと思う。